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なんでですか

おはようございます。きょうも書いていきます。

なんでですか?とは暴力的なフレーズだと思う。これって、なんでですか?なんでこうなったんですか?聞いている側に悪気はなく、知りたくて聞いている。聞かれている側も、答えたくないわけではない。ただ、わからないということがあるのを知っておいてほしい。

確かに何かを意思決定するときは、何かしらの理由をつけている。ある質問への回答がああだったからとか、あることへの対応がこうだったからとか、それはとても些細で、でも意外と大切なことだったりする。しかしながら、そのどれかひとつを摘みとって、「はい、これが理由です。」とだなんて、言わないで(言わせないで)ほしいのだ。

何かを決めているときの理由なんてかなり適当で、ほぼ嘘っぱちだと思う。なんで彼女好きになったの、なんでその会社選んだの、なんでなんでと聞くけれど、本当に偶然、たまたまそうなっただけの可能性が高い。たまたま、立ち寄ったお店で知り合った。たまたま、ネットを漁っていたら見つけた。その偶然を必然っぽく塗り替えただけだ。

その塗り替えられた理由を聞いてどうするのだろう。「ああ、やっぱり。」なんて言って、安心でもするのだろうか。理由は聞く側に意味をなさない。持つ側にしか意味をもたらさないのだ。そしてそれはすぐ言語化して万人に伝えられるものではない。日をまたいで解釈を反芻するものである。

理由を知りたいと思うことは否定しない。また理由を持つこと考えることは必要である。しかし相手に求めることは否定する。それは流れている川に桶をつっこんで、いちいちこの川の水は冷たい甘いなどと、議論をしているに過ぎないからだ。本人でさえ分からないものを、他人がどうして分かるのだろうか。

なんでですか?と思い浮かんだら、なんでだろう?に変換するべきだ。答えあわせをするのではなく、いまの答えを自らのなかに見つけ、所有するべきである。いずれまたその答えが変化するときがくる。そのときにはじめて、なんでなのかを知るだろう。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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吉澤 馨
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