言葉に仕う
おはようございます。きょうも書いていきます。
会社やチームで理念を浸透させるとき、言葉を考える。固い表現がいい、柔らかい表現がいい。具体的がいい、抽象的がいい。誰にでもわかる言葉にしよう。そこに様々な目論見、企て、願いがこめられることになる。ただ一つ言えるのは、言葉は使われないと価値を持たない、ということだ。
それでは、言葉が使われるとは、なんだろうか。たとえば読経のように、毎日繰り返し、延々と読み上げる、これは立派な使われるであろう。居酒屋のトイレに貼られた紙に書かれている、ありがたい言葉も、無言のうちに読み上げている。それもまた使われるということである。
一方で、同じ言葉をただ口や目で繰り返すというのを、使えている、とみなすのはいかがなものか、という見方もある。自分の言葉にはなっていないのではないか、そういう疑念である。先生が言っていたから、本に載っていたから、書いてあったから。我々はそのようにして、言葉を自身の思考から切り離すことが、稀にある。
そこで言葉を反芻する、という視点を加えてみる。たとえば俳句。芭蕉の古池や、蛙飛び込む、水の音、は誰もが心で唱えられるが、その解釈は、まちまちである。人によって、時代によってさえ異なる。五七五のリズムは、日本人には心地よく、すぐに覚えられるが、解釈というとそうはいかない。生涯を賭けるものもあるだろう。
時間をかけて解釈に挑む、考え続ける、というのも同じ、言葉を使うではないか。すぐにわかるものは陳腐化も早い。
ビジョナリーな会社やチームが求められてひさしい。もし理念が似通ってしまう、埋もれてしまうという懸念があるのだとすれば、それは容易に誰でも解る言葉に、拘りすぎているからかもしれない。相手の解釈を信じることができていないのかもしれない。
言葉を使うとは、言葉に仕うともいえる。その意味を求めて、挑むのをやめない。それでようやく滲みてくるのだ。
今日も読んでくださってありがとうございました。よい一日をおすごしください。