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彫刻家・朝倉文夫記念館を訪ねて・・

私の生まれ故郷は大分県臼杵市です。臼杵市は海に近い城下町であり門前町でもあります。

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彫刻家・朝倉文夫

東洋のロダンとも称されていた彫刻家。1883年大分県大野郡に生まれる。
明治41年第2回文展より第8回文展まで連続7回受賞という輝かしい実績をあげ、官展審査委員、帝国美術院会員となります。
入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に「竹田中学校」に独立。現大分県立竹田高等学校)を三度も落第し、いたたまれなくなった母キミにより、明治35年当時、東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄、渡辺長男を頼って上京することになります。
結果的に兄のもとで彫塑に魅せられた文夫は必死の受験勉強の末、
翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学。東京美術学校彫刻選科時代、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭しました。
モデルを雇う金がないために、上野動物園に通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の注文で動物の像の制作を始め、ほぼ1日に一体のペースで卒業までに1200体以上に及んだといいます。大正10年に東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮でした。

「進化」

進化


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昭和9年にアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」を作ります。
アトリエは戦災をくぐり抜けるが、戦時中の金属供出のために、400点余の文夫の作品はほとんど消滅してしまいます。(原型は300点余が残された)
戦後も勢力的に自然主義的写実描写に徹した精微な表現姿勢を一貫して保ち続け、昭和23年は第6回文化勲章を受章。昭和27年に文化功労者に、昭和33年には日展の顧問に就任した。
非常に多作であり、全国各地に数多くの像を残しました。上野駅構内にある「翼の像」 早稲田大学にある「大隈重信像」等など、いたるところに展示されています。

「翼の像」上野駅構内

翼の像


「大隈重信像」早稲田大学

大隈重信


青空がのぞき紅葉する山の中、突然整然とした敷地が現れる。
大分アジア彫刻展(日本近代彫刻の基礎を築いた朝倉文夫の偉業を顕彰し、1992年より開催されている彫刻展。アジアの新進彫刻家の登竜門として、注目を集めています。)の受賞作品達が敷地内に点在していました。
ここに朝倉文夫記念館があります。

125年前にこの片田舎で生まれた青年が日本の近代彫刻の基盤を作りだし、そしてアジアに世界に広がっている事実。昭和39年81歳死去まで制作し続ける執念と熱意は、成し遂げるべく偉人です。

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前回の宮沢賢治の記事はこちら↓



臼杵市には大きな鍾乳洞があります。初めてここを発見した人々の驚きを思い、鍾乳石の造形に見入り、恐ろしく長い時の経過に宇宙を感じました。
大分から見た雄大な阿蘇山・湯布院・九重の山々。

風連鍾乳洞1

風連鍾乳洞と阿蘇

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日本の風景は四季折々いつでもどこでも絵に残したいと思いますね。今回はそんな風景に魅せられた生徒さんの作品をご紹介します。

【伊勢原日向地区】 F6号 アクリル画 YCさん

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この季節になると写真愛好家やスケッチをする人達でにぎわう地域です。
真っ赤な曼殊沙華が、埋めつくす様子は日向地区の名物になっています。

作者は過去に何度もこの地区を訪れて、絵手紙にしたり写真に撮ったり
スケッチしたりしたのでしょう。
どの場所から見れば、最もきれいに見えるかを熟知している構図になっていると思います。

夏の終わりの雲の様子、深い緑の山懐、そこに開けた棚田。
青と緑と赤のコントラストが見る者の心を掴んで離さない。
この作品は完全な具象絵画ではありますが、それぞれの色面を
ひとつのマッス(かたまり)として表出する事で、抽象絵画を
見ているような気にさせてくれる作品です。

                   オクトアトリエ講師 若林 薫 評


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