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祖母と樟蔭女専

現在の大阪樟蔭女子大学の前身にあたる樟蔭女子専門学校で、祖母は洋裁の先生をしていた。実家から譲り受けた写真に、生徒に囲まれて輝いている祖母の姿があった。気になって樟蔭女子大の紀要を見ると、祖母の名前もあった。
「朝ドラと女学校」というマガジンを作ったばかりで番外編となるが、教壇の祖母の写真を見ながら、生前の祖母から聞いたエピソードなどを書きとめておきたい。

写真裏側に「21年通い通った校門」と手書きメモ

1.樟蔭女専と祖母のライフヒストリー

1918(大正7)年に開設された樟蔭高等女学校は、大阪の南東にある。

当時は本科の他に、本科卒業生が学び続けるための専攻科が用意されていた。この専攻科を土台に、さらに1922(大正11)年に開設された高等科を吸収する形で、1926(大正15)年に樟蔭女子専門学校(女専)が設置される。なお、当時の「専門学校」は、今日の大学に相当する。特に当時の女子は男子校である「大学」に通えないので、「専門学校」や、現在のお茶大や奈良女子大の前身の女子高等師範学校(女高師)が、高等教育の学校となる。

明治末期生まれの祖母は、樟蔭の女専に20年ほど務めた。そして、戦争の激動の時代に教師生命を貫き、戦後は家の事情で、40を過ぎてから嫁ぐことになった。

もとは芦屋の開業医の一人娘として育ち、「先生」になることを反対され、実家と折り合いが悪くなったと聞いた。小さな頃の写真がかわいくて、マガジンの見出しの画像にしました☆

祖母は、洋裁の先生だった。もっとも戦時下では和裁もやむを得ず担当したそうだ。
祖母が亡くなり、告別式で喪主の父が「専門は和裁で・・・」と読み上げたところ、関西マダムの卒業生に囲まれ「洋裁よ!」とたしなめられていた。もとより父は和裁と洋裁の違いも分からない人なのだが、洋裁を専門とすること、また生徒にとって洋裁を学ぶことは、誇り高いことなのだと思う。

参考文献(2012)によると、戦時中は軍服を縫うための勤労奉仕の担当もしていた。戦争末期になると、空襲警報や防災訓練も頻繁にあったようだ。戦争が祖母の生き方を大きく変えてしまったように思う。

祖母を囲む生徒の服はよく見ると、襟やポケットが素材違い、チェックのコートなど。カラーで見てみたい!

2.樟蔭の女専の洋裁教育

現在の大阪樟蔭女子大は2011年より紀要を発刊しており、その第1号に、戦時中の「裁縫」試験の論考が載っていた。樟蔭女子大の特別研究助成で、8年かけて大学史をまとめているらしい。その研究成果として、中等教育教員、つまり女学校の教師になる実力を示すための検定試験のことが、論文としてまとめられていた(当時は特定の学校・学科の卒業により教員免許が得られる制度があった)。

その試験の作問者として、昭和17年度から20年度まで、祖母の名前がある。祖母は物腰は穏やかだが、簡潔明瞭にてきぱき話した。その面影どおり、問題文は明晰で無駄がない。担当は「洋裁」と「洋裁実習」で、「左図の男子開襟シャツを製図せよ」「但、扱ひ方を手際よく述べよ」など。いわば卒業試験にあたるので高度なのは承知だが、それにしても見当がつかない。

紀要論文によると、ロンドンやパリでオートクチュールの技術を学んだ大橋富枝氏が赴任するなど、樟蔭女子大の洋裁教育は高い水準にあったそうだ。その大橋氏が昭和5年度から15年度まで、ほぼ毎年「洋裁」の作問を担当された。昭和16年度をはさみ、17年度より作問担当を引き継ぐことになった祖母は、主任レベルだったのではないか。

祖母には、パリ留学の話が持ち上がっていたと聞いた。もしかしたら、樟蔭の洋裁教育の次のエースとして期待されていたのかもしれない。しかし、結婚話も持ち上がり、退職してしまったのだが。

そのような祖母に、私ごときの家庭科の宿題を手伝ってもらったのは、申し訳ないくらい贅沢なことだった。運針やハサミさばきは見えないくらい速く、まち針の打ち方や型紙の採り方が鮮やかだった。自由研究でアール・デコを調べた時、フランスやアメリカの立体的な服装の話をしてくれた。

今にして思うと、祖母は実は宿題を楽しんでいたのではないか。私の高校はお茶大の附属校だった。家庭科はお茶大卒の教師の本領がおそらく最も発揮される分野で、木下順庵の直系の方が服飾の担当だったりした。何だかうれしそうに宿題を手伝ってくれたのは、「女高師」にチャレンジしたかったのかもしれない。

鎌倉の大仏前! 修学旅行? セーラー服なので高女の生徒かも?

3.卒業生と祖母

樟蔭を辞めて高知の実業家に嫁いだ祖母は、私の両親が暮らす都内に住むことになった。そのため、関西にいる旧知の友人や卒業生と疎遠になったのは気の毒であった。

還暦を迎える卒業生が企画した同窓会に祖母が招かれた時は、小旅行に私がおともした。京都のホテルで、ともかく盛大だった。そして、卒業生の華やかとにぎやかさは、驚きであった。送り迎えは黒いグラサンのマダムたちの運転で、ベンツなどの外車が群れている。招待していただいたお宅やお店もゴージャス☆

祖母によると、専攻科というのは裕福なご家庭の生徒が多いそうだ。学科(コース)は、専門分野や学習意欲というより、生徒のバックグラウンドで決まっているということかもしれない。

それから、戦時中に一緒に過ごした生徒との気持ちの上での結びつきが強いことも教えてくれた。授業がなくなって工場に分散して、分厚い軍服をミシンで縫い、次第に材料も食糧も乏しくなり、空襲警報が鳴ったり本当に空襲があったり。亡くなるご家族も増え・・・そのような時期を共にして、前向きに乗り越えた教師と生徒の仲をかいま見ることができた。

祖母のお葬式には、そうした元・生徒のマダムたちが関西からいらしてくださった。私の女学校の原風景は、そうした祖母の思い出とつながっている。今回、写真が出てきたことで、写真そのものはセピア色だが、女学校のイメージが色あざやかになったように思う。鎌倉の大仏を背景に、セーラー服の生徒と若い祖母が並んだ記念写真もあった。修学旅行と思われるが、戦前の鎌倉を祖母が訪れていたとは!
湘南住まいの今、祖母を身近に感じる。そして、祖母や卒業生のライフヒストリーに、「朝ドラ」に通じるものを感じている。

参考文献

白川哲郎(2011)「十五年戦争期の女子専門学校『裁縫』試験問題」『大阪樟蔭女子大学研究紀要』第1巻、129-136頁
白川哲郎(2012)「教務日誌に見る昭和19年度の樟蔭女子専門学校」『大阪樟蔭女子大学研究紀要』第2巻、85-94頁


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