#写真展 牛腸茂雄という写真家がいた。
「ごく普通の記念写真みたいなのに、なんか……う〜ん」
「『牛腸の写真を見ることは、牛腸の世界を見ること』って?はて」
そんな疑問を胸に、六本木の富士フイルムスクエアに向かった。六本木駅着。いつもの習慣で、エスカレーターの民を横目に勝ち誇った顔で階段をのぼる。のぼる。のぼる。……長い。(大江戸線の中で2番目に深いのが六本木駅らしい。どうりで、はあはあ(息切れ))
思ったよりも、狭い展示だった。だけど、一枚一枚気持ちを込めて、写真を焼いてくれたんだなあっていうのが伝わってきた。なんでだろうね。
牛腸茂雄は1946年に新潟で生まる。3歳で胸椎カリエスを患い、その後も身体的ハンディキャップを背負いながら活動する。
ネットや書籍で牛腸のことを調べるとまず発見するのはお決まりのこんな感じのプロフィールだった。どうしてこんなに強調(?)するんだろう、そう思っていたけど、それが彼の写真を構成する重要な要素だったからなんだねえ、なるほど。
横位置のローアングルの構図は、写真の中の少しこわばった面持ちの子どもたちの表情は、他でもない牛腸茂雄がつくりだしているものでした。初めて彼の写真を見たとき、「あぁ、私にはこの写真を撮ることはできない」と直感的に思ったのだけれど、それはある意味正しかったらしい。そして、子どもたちの瞳は牛腸を見る瞳であり、牛腸が見つめる子どもたちの姿でもあるのだと、私は実感を持って理解できる。
一眼レフカメラで好きな男の子を撮った・撮られた経験が一度ずつある。どちらも決定的に《撮った》《撮られた》感覚があって、ドキッと心がゆれ動いた。
とくに撮られたあの日のことを今でもよく覚えている。
仏頂面の私の表情が、カメラ越しに彼を目があった時、崩れたのである。ううん、カメラ越しの彼の瞳とはにかんだ口元が、私にまとわりついていた余計なものを取り払ってくれたのだと思う。駆け寄って、彼からカメラを奪って、自分の姿を確認して、「うわ、私、自分で思ってた以上にこの人に恋してたんだあ」と気づいてしまった。本当はその日に別れ話をして二度と会わなくなる予定だったのに、それは宇宙の彼方に飛んでいってしまった(若いことは素晴らしい)。友達はこの写真を「ヘンテコな顔してるね!」って。
そんなこんなで、えーと、私が2回しか経験できてないアレを牛腸茂雄は日常的にやっていたのかあって、恐れ入りました。ええ、もう、本当に。
ものを見るという行為は、
たいへん醒めた行為のように思われます。
しかし醒めるという状態には、
とても熱い熱い過程があると思うのです。
牛腸茂雄
The act of seeing things, I think it's quit a stoic one.
Arriving at this stoic one, however, is,
I would say a really emotional, impassioned one.
Shigeo Gocho
2016 12.13 火曜日 のできごと。