見出し画像

ノーフォトジェニックサマーに寄せて。


この写真をある人に見せたとき「よくわからない」と言われた。私の「良い」が、みんなにとっての「良い」とは限らないなら、それこそ、私の「良い」をモチーフとして具現化していくことこそが、私の輪郭をはっきりとさせる行為であり、具現化したモチーフは私の個性だ。

「やらなきゃ、まだまだやらなきゃ」そう思った。




伝えることと伝わること、
とても難しいことだと思う。

全身全霊をかければ、きっと届くさ、
なんて嘘で人と人の間には分かち合えない、
混じり合えない境界線がある。

私に向かって放たれた言葉、表情、仕草、声、
私の22年間の人生ではとても全部は掴みきれなくて、それでも感覚を研ぎ澄ませることでより核心に近いものからキャッチすることができるようになるはずだ。

或いは、核心ど真ん中ストレートが、
自分めがけて飛び込んでくることがある。
飛び込んできたものに対して反射的にぎゅっと指に力を入れるだけでキャッチできる時、
あれは何なんだろう。

理屈じゃなくて、第三者に説明するのも難しい。
そんな経験ありませんか。
分からないのに勝手に涙が出てきて感動しちゃうとか、そういうときがたまにあって、私はそれをしあわせだと思うのかもしれない。




話が逸れてしまった感じもするけれど、
私にとっては今回の「ノーフォトジェニックサマー」がそれに近しい感覚だった。ううん、違うなぁ。
この写真たちで、今回も主人公(「モデル」よりは主人公のがしっくりくるの。)を務めてくれためぐちゃんに直球ど真ん中ストレートを投げられた気がした。自惚れてしまってたらごめんよ、めぐちゃん。

この写真たちをほっかほかのまま、めぐちゃんに届けたとき、彼女は、

「香里ちゃんはこういうことを言いたかったのね、やりたかったのねっていうことをすごく具体的に見せられて、わたし、圧倒してる……」

と言ってくれた。その後に続くめぐちゃんの感覚的な言葉もまた私の直球ど真ん中ストレートに飛び込んできて、かなり高純度の言葉のキャッチボールであった。

私の写真を撮る感覚やその熱量、自分の表現したいこと、そういうものをこんなにはっきり人に理解してもらうのは初めてだった。

もともと「あえて言葉にはしないから、感覚で好きに受け取ってくれ〜〜〜〜」と思い、相手に託すような形で写真を発信してきたのだけれど、理解してもらうとはこんなに嬉しいことなのか、涙が出るくらい嬉しいなんて私は知らなかったぞ。

それでもやっぱり写真につけるキャプションはなるべくシンプルにして、その人の感覚で見てほしいと、自由に受け取ってほしいと思うのだけれど、
これだと気難しげな現代アートくんと距離感が同じになってしまうなと思いまして
(一部の現代アートは「自由に受け取って」というけど、全く何もわからない時ない?)、
今後こういう形でつらつらと書きつらねて行こうかなあと考えております。暇な人と暇じゃない人は是非読んでくださいね。




2017年、写真を撮る人たちにとって、その行為はさらに複雑になったと思う。
写真も、写真を撮ることも身近になったことの意味は、写真の価値を上げるのか下げるのか。消費されるだけが写真なのか。安っちい女の子とお花の写真がネット空間に増えていく。流れてく。そんな人たちと一緒になんてされたくない、でも私にはまだまだ力が足りない。もっともっとって思いながらシャッターを切って、悔しくなったり嬉しくなったりする。


いいなと思ったら応援しよう!