東京オリンピックと私 #1
TOKYO2020閉幕から約3ヶ月が過ぎ去った、2021年11月。
東京五輪について陸上の新谷仁美選手が「夢であってほしかった」と表現していてハッとさせられた。
東京五輪と私の間にいまだ根強く残り続ける "なにか" と新谷さんのその言葉に通ずるものを(勝手に)感じずにはいられなかった。
あの日々はいったいなんだったんだろうかという想いがいまだに拭えない。
組織委員会にたどり着くまで
2013年、当時のロゲIOC会長が「トーキョー!」と開催地を発表した瞬間、なんらかのスタッフとして東京五輪に携わりたいという想いを抱いた。
私は当時コンサートやイベントに関する仕事をしていたので、大会が近づいてくれば仕事がむこうからやってくるのでは?と自然と思っていたけれど、そうはならなかった。
2019年、観戦チケットが発売され、私は大河ドラマ「いだてん」にドハマり。東京五輪への想いが急速に募り、これはいよいよ何か動かないと!!と勝手に燃えていたら、なんと組織委員会の求人を見つけた。これはもう最初で最後のチャンスだと思って背水の陣で臨む。も、散ってしまった。(今思えば、その時落ちてしまった理由が想像つくだけに、後の縁により奇縁というものはあるのかもしれないと、後で思う)
その時はもう「終わった」と思ったが、2020年に入って急遽、別の関わり方でオリンピックに携わるチャンスが舞い込んできて、そのお話をいただけた時は本当に嬉しかった。ところが・・・未曾有のコロナ禍に突入してしまい、大会は延期に・・・。当然私がいただいていたお話も白紙になり、また「終わった」と思った。
それからしばらくは多くの人がそうであったように、「新しい生活様式」「自粛」「ステイホーム」の渦に飲まれ、しばらくオリンピックのことは忘れていたかもしれない。コロナ禍になってなお、三たびオリンピックを意識したのは、2020年12月に開かれた陸上長距離の日本選手権で、相澤選手や新谷選手が日本記録を樹立し東京オリンピックの出場権を掴む姿を見た時だった気がする。
オリンピックへの切符をまさに掴んだ人を目の前で見て、コロナ騒動で失っていた、五輪への想いが再燃。その勢いを元でに、ダメ元でググってみたら、コロナ禍のこんな時にまた、組織委員会が求人を出していた。
これまたダメ元で応募。面接はコロナ禍なのでオンライン形式。前回の反省をふまえて話すことを心掛けた。
忘れもしない2021年1月26日。合格通知を受け取った時の喜びは、今でも覚えている。
ここから先はTOKYO2020が終わった今になっても怖くて向き合えなかった、組織委員会の職員として東京オリンピック・パラリンピックの一員となった自分と、初めて向き合い、振り返る。