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賀茂氏と「暦」に関するメモ(2)

ざっと「暦」について紹介した前回の記事はこちら

暦がどれだけ重要なものかを考えれば、大和朝廷以前から存在していたことは明白

「暦師の館」では、案内の方がついて説明をしてくださるのだが、あくまでも一般的な「暦というもの」についての説明にとどまっていることから、わたしが知りたい根本的な疑問についての解は得られずだった。


基本的に、「暦」と「祭祀」は深く繋がっているわけで、ましてや宮中祭祀においては暦の正確性は極めて重要であろうことは、よく考えれば誰でもわかると思う。

「三嶋暦」としての頒布は「鎌倉時代から」という説明をしつこく繰り返されたのだが、わたしが知りたいのはそれ以前の話だ。

古代社会において、暦(太陰太陽暦)の技術を司った者たちについてわたしは知りたい。
要するに、賀茂氏は暦を司ったとして、彼ら以外にその技術を持った人たちはいたのか、いなかったのか、いたとすれば、それは誰たちなのかということが知りたかった。


「暦が中国から伝わった」なんてことを受け入れるか

古代出雲族は龍蛇族であり、海神である。
その人たちは縄文の遠い時代に優れた航海術を有していたわけで、それはすなわち実に正確な星読みスキルを持っていたわけである。

なので、下記写真の説明にあるように、「飛鳥時代に暦が中国から入ってきた」などと聞いて、素直にそうですかとは到底受け入れられない。
その時点で入ってきたのは陰陽思想や五行であり、正確な航海を可能にする星読みスキルはもっと以前、遥か昔からある種族(氏族と言ってもいいのかも)は持っていたに決まっている。
この星読みスキルに陰陽五行思想を加味して、漢字というツールを使って文字化したのが5世紀ごろ、という解釈であれば納得はできる。

小さなことに思えるかもしれないが、このような小さな件でも、「古代の日本には技術がなかった」「古代人は未熟だった」のような刷り込みがいたるところで繰り返しなされるわけで、そのことがわたしたちの歴史理解、もっと言えばルーツの理解を大きく妨げているとわたしは思っている。
別にルーツを正確に理解しなくても生きていけるわけだが、それより大事なのは「意識の拡大」であり、何につけこのように植え付けられた固定観念の上に物事を捉えている限り、本質から何かズレたままに終わるだろう。


太陰太陽暦とは要するに「バビロニア暦」のこと

どうして根源的な問いを持たずに「中国から伝わった」でおしまいにできようか。



正解を先に言えば、太陰太陽暦とは中国起源のものではなく、古代バビロニアが起源なのだ。

バビロニア暦

古代バビロニアで用いられた太陰太陽法。バビロニアにはすでに紀元前25世紀ころには暦法があったといわれている。1年はニサンという春の月から始まり、月は西天に繊月を見たときに始まる。閏(うるう)月は、暦年を季節に調節する必要があったときに最後の月アダルを繰り返したが、ときには第6月のウルルを繰り返すこともあり、まれには他の月を繰り返すこともあって、前6世紀終わりころまで置閏(ちじゅん)法は一定しなかった。前529~前504年までは8暦年を99暦月に等置する八年法が用いられた。前383年には19年間に7閏月を一定間隔で置くような置閏規則が採用された。この十九年七閏法は前433年にギリシアのメトンによって発見されているが、バビロニア人がこれを独自に発見したのか、ギリシアから導入したものかはわかっていない。バビロニア暦の日付をユリウス暦の日付に換算することは一般に困難で不確かでもある。バビロニアの古代暦は任意に、また新月の観測によって手直しされたため、確実に完全に復原することができないし、各月の長さを十分完全に連続して記録したものや、すべての閏月に関する証拠がなく、他の暦と関係づけることはできない。前747年から毎月の観測および各月が含む日数が記録されるようになって、これから天文学的周期を決定することができるようになり、前6世紀にはすでに日月食の繰り返すサロス周期を知っていた。

日本大百科全書(ニッポニカ)「バビロニア暦」の解説
https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A2%E6%9A%A6-1196409

紀元前2000年ごろ、彼らは「うるう月」の把握をしており、この観測法が日本に伝わっていたことをどうしていたるところで伝えないのかと憤りさえ覚える。


この項つづく


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りーかお総研〜人体とエネルギー総合研究所
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