伝承の日本史12 〜 尾張一族の分裂と海部氏

ヤマトの尾張勢も物部に追放され、一部は和歌山で高倉下の子孫と合流。
残りは摂津三島へ逃げた。
三島で尾張家と海家が分かれ、海家は先祖の地である丹波に去った。

崇神記に「日子坐(ひこいます)王を丹波に派遣し玖賀耳(くがみみ)之御笠を殺させた」と記され、玖賀耳は山賊とされているが、海家勢力のことだという説もあり。
玖賀とはクヌガ(国処=日本海側)の意味、御笠の「御」の字は敬語。旧大王家が匂わされている。海部系系図に笠水彦や笠津彦などの「笠」が多く見られる。

崇神記の記事の実際は、丹波国に海氏が逃げて、10代ヒコイマスも丹波に追いやられたことを意味する。

尾張一族で最後に残った人たちは伊勢湾北部に移住。その地は尾張国となった。
旧事本紀では、海村雲の子孫が尾張連の祖になった。
村雲大王の4世孫、建田背は丹波国造となり、海部家を名乗った。海部は真名井神社を建て、社家になった。
9世孫オトヨ(乎止与)は海部家から分かれて尾張国造家となり、その子孫が熱田神宮の社家を務めたこともあった。

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