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霞ヶ関での天職探しから退職に至るまで

帰国後最初の仕事

2012年、7年に及ぶ海外留学+勤務を終え、外務省(霞ヶ関)での仕事になりました。ニカラグア勤務時代に手術した右膝が回復せず、エクアドル赴任中に、左膝も痛くなってしまい、日本で膝の治療に専念したいと思い、残業が少ない部署に配置してもらいました。

針、理学療法あらゆることをしてきたにも関わらず、良くならない膝。お医者さんに聞いても、原因がわからないので、ある日、友達に紹介された占星術の方に占ってもらいました。そして、「膝の痛みは、色々やりすぎる傾向にある私を止めるために起こっています。」と言われました。外務省の医務官にも、休職して、精神的な面からアプローチもありと言われたので、休職を申し出てみました。でも、休職して行うべき治療プランがあったわけではなく、当時の上司は、休職したけど、膝がよくならなかったら、私がよけい落ち込むし、仕事に復帰しずらくなってしまうことを危惧されたようで、OKと言って下さらず、結果、仕事を続けました。

休職できないとわかり、仕事をするとなると、やっぱり中途半端な仕事はできない性分なので、そこでの仕事もやる気120%でやりました。私がいた部署は、古い外交文書を外交史料館に移して、公開する仕事でした。外交の最前線の仕事ではなかったのですが、戦後から高度経済成長期にかけての外交文書に触れることができ、当時の外交官の方の半端ない外交への姿勢を文書から見ることができました。特に当時の外交官は、戦争を2度と起こしてはいけないという想いが強く、それがわかる文書にとてもインスパイアされ、世界平和に貢献すると私の信条を新たにすることができました。

鉱物資源の安定供給のために外交で何かできるか

外文書の公開の仕事もとてもやりがいがあったのですが、やっぱり外交の最前線の仕事がしたいと思い、異動を希望しました。私は日本と海外のビジネスをつなげる仕事に興味があったので、経済関係の部署を希望し、資源の安定供給のための取り組みをしている部署に異動させてもらいました。私は鉱物資源の担当でした。レアアースも鉱物ですが、レアアースは家電やEVなどに使われており、日本経済の骨幹となる製造業に不可欠な資源です。リサイクルを除くとほぼ輸入に頼っているため、安定して輸入できるように外交的にどんな取り組みができるかを考える仕事でした。

私はネットワーキングが好きですし、また、机上の勉強も好きですが、その道の最前線にいる方からお話を聞いて知識を得つつ、私の立場でお役に立てることを返すことが好きです。そこで、当時も、資源開発系の企業、機関、商社の方と仲良くなり、飲み会をしながら意見交換をしたり、鉱物を使っているメーカーの方、鉱物資源の研究をしている大学研究者の方からお話をきいて、外務省が貢献できることを考え提案していました。

同時並行で、天職探し

仕事も熱心にしていましたが、外務省の仕事だけをしていたら、いつまでたっても独立してやりたいと思う仕事は思いつかないと思い、帰国後、思いつくことは、片っ端から挑戦しました。

自己啓発セミナーには色々参加しました。でも、私は、成功者の方のメソッドに充実に従うことができない性分で、やりたいようにやりたい(笑)人なので、違和感を感じることが多く、セミナーから独立の大きなヒントを得ることはありませんでした。

また、私はスペイン語が大好きなので、語学系で独立できないかと思い、その分野での可能性も探りました。特に、私は海外勤務時代、海外に出たい日本の若者が少なくなったことを肌で感じていたので、昭和女子大学の研究員になり、大学の第2外国語の学習が楽しくなる授業の方法を少しばかり研究しました。また、大学時代にスペイン語を教えて頂いたスペイン人の先生にお願いし、先生が当時教えていた東大と上智大のスペイン語の授業の1回を、私が担当させてもらいました。また、ボランティアで都内の文化サロンでスペイン語を教えていました。私の授業は、都内に住むスペイン語圏の友達や知り合いに参加してもらい、彼らと生徒さんに会話してもらうというスタイルをとっていました。とても好評でしたが、毎回、友達の確保が大変でした。そして、語学一本のビジネスにすることにも、ワクワクを感じることができませんでした。日本と海外のビジネスをつなぎたいという想いや、勉強好きなので、コンスタントに知識の探求ができるようなものがよいなとぼんやり思っていました。

外務省の担当以外の仕事でも可能性を追求しました。私は海外で外国語を使って生活することが大変だけど、自分の視野が広がり、考え方にも幅が増え、自己成長もできるので、やっぱり日本の若い方に海外に積極的に出てもらいたいと思っていました。そこで、外務省は、当時、外務省員が希望する高校に行き、外交について講演する出張講座を行っていたので、自ら手を挙げ(笑)、2年で5校ほど講演させてもらいました。外交のことを語っても、高校生は関心を持たないし、私も海外の楽しさや、天職の実現(夢の実現)の大切さを伝えたかったので、そういった話を情熱的に語らせてもらいました。

その講演の報告が外務省のHPにまだ残っていたので、紹介します。

起業コンペティションにも参加しました。Startup weekend Tokyo(スタンフォード大学発祥の起業コンペティション)に参加し、「田舎で天職を見つけるコンサルティング」という自分のプランで賛同者を集め、異業種のメンバー8名を率いるチームリーダーとなって、起業プランを作りました。最終的にに、遠隔地ワーカーの業務管理ソフトウェアツールというアイデアでピッチし、9チームの中で優勝しました。でも、ソフトウェアに関心がなかったので、優勝はうれしかったのですが、引き続き、何で独立するかという答えは見つかりませんでした。

通訳で活躍

海外勤務から戻り、退職に至るまでの3年間で、自分の担当の仕事以外で花開いた仕事がありました。それはスペイン語通訳の仕事でした。外務省では最初の海外勤務を終えた若手省員が外務大臣や総理大臣が会談をするときの通訳を務めることが多いんです。いきなり大臣級の会談の通訳は任されず、会食や非公式の会談などから経験を積んでいきます。私も帰国直後から、簡単な通訳を任されるようになりました。私は会談より、会食での通訳が得意でした。とにかく、通訳をさせて頂いているお二人がわかりあってもらいたい、そして、この場で何かが生まれてほしいという情熱で、そして何よりスペイン語が大好きなので、声大きく、テンポよく、通訳をしていました。それが評価され、どんどん通訳の場がステップアップして行き、外務大臣の会談、総理の会談、皇室の通訳を任されるようになりました。

通訳をさせて頂いた安倍前総理とミード・メキシコ外務大臣(当時)の会談の写真です。

概ね、私は通訳をする際は、その10日くらい前から、通勤時にひたすら一人、三役で(つまり、総理、お相手、そして通訳の私)シュミレーションをしていました。周りに聞こえないようにほぼ声に出さずにしゃべっていましたが、怪しい人に見えたと思いますが。何が来てもすぐに通訳できるように、上がりそうな話題も調べて、関係する単語も調べていました。

いつも通訳をやる前は、プレッシャーと緊張が続き、なぜ、引き受けたんだろうと思うのですが、やり始めると、この会話が盛り上がり、国と国の友情を築く一歩になってほしいという想いが沸き上がり、雑念が消えて、ひたすら通訳に徹していました。終わった後の爽快感と充実感は何物にも代えがたく、本当に貴重な経験をさせて頂きました。

2014年には、安倍前総理のスペイン公式訪問・中南米公式訪問に安倍総理夫人の専属通訳として同行させてもらいました。その経験から外務省で、やり切った感もあり、また、一方で、辞めないと自分の天職はわからないのではないかという気持ちになってきてきたいので、2014年9月に、10年半年の外務省員人生に終止符を打ちました。このような通訳の機会を多く与えて下さった外務省に深く感謝しています。

まとめ

哲学者故Michael Novak氏は、天職は私たちの能力にフィットしたものであり、その才能とは、トライアンドエラーを返し、時間と労力をかけて発見されると述べています。私はこのNovak氏の言葉を天職研究を始めてから知ることになるのですが、その前に、最後の外務省員人生の3年間で、このトライアンドエラーを始めました。そして、そのトライアンドエラーは、今も続いていますが、私が外務省人生の中で多く仕事をさせて頂いた通訳、中でも日本と海外の方をつなげるという情熱と語学好きところは、私の天賦の才能ではないかと少しばかり自負しています。そして、この才能を今のコンサルタントの仕事で活かしています。

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