母とシュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルトタム〈#同じテーマで小説を書こう〉
夫の家族は品がある。それも人に見せつけるような気取ったものではなく、地に足のついた整然としたもの。
わたしはそれが羨ましい。わたしがどんなに高価な服を身につけ、分厚い本を必死に読みまくり、それなりに振る舞っても持ちえない品。
多分その行為がもう品から遠ざかっているのだろう。
ある日、夕方の海辺の写真を義理の母に送った。低俗なわたしが見つけられる"母に似合う素敵なもの"は夕陽や虹くらいしかない…
それでも母は「物語のようね」と喜んだ。そしてこう続けた。「ミレーの絵のよう、いや、海だから違うわね。あの人、誰だったかしら。」
ミレー?ビスケットしか思い浮かばないわたし。慌ててネット検索をする。
夫が横から反応する。「ターナーでしょ。」母「そうそうそれよ。ターナーの絵。スッキリしたわ、ありがとう。」
彼らは気づいていない。日常に絵画の話題を持ち込む"高尚で趣きのあるゆかしさ"を持ちあわせていることを。
はぁ、羨ましい。彼らは丁寧に生きている。紫陽花を育てドライフラワーにしたり、もらった桃をコンポートにしてみたり。どんなに忙しくても、生きることを豊かにする時間を惜しまない。
母はたまに手料理を写真で送ってくれる。それは、レストランで出てくるような華々しい料理ではなく、ひと品ひと品の行く末を考えてつくられた麗しい食べ物たち。
母の料理は、身体が求めているものをその季節ならではの食材で丁寧に補っていく、そんな感じだ。
ある夏の日曜のこと。母からトマトと豆と玉ねぎをしっかり煮込んだようなそんな料理の写真が送られてきた。
「これにヨーグルトをかけたら出来上がり。美味しいフランスパンをいただいたから、それと一緒にいただくと素敵かなと思って。」
私はすかさず聞く。「何という料理ですか。」
母はこう答えた。「シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルトタムよ。」
その日からわたしは毎日この言葉を練習している。「シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルトタムよ。」わたしは母のようになりたい。
✳︎こちらの作品は「シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルトタム」を調べずに書いています。