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乙女座17度「力の解放」

2018年9月9日午前2時13分、トランジット太陽が乙女座数え17度へ入りました。乙女座数え17度のサビアンシンボルをぎゅぎゅっと五文字くらいに圧縮すると「力の解放」

「♍17力の解放」原文チェック。黒字が1925年ジョーンズ版「A volcano in eruption(ある)噴火している火山」。青字が1975年ルディア版「Avolcanic eruption. (ある)火山の噴火」

「♍17力の解放」番地チェック。乙女座後半(復路)の、5度ずつに分けた第1グループ(はじめ)の、第2度数。どの5度組でも第2度数は第1度数を裏打ちする。磯野家で言えば第2度数はフネ。

「♍16大猿と対面」が波平、「♍1顔はアイコン」の逆位置。望ましい部分を盛り、残りは省略。人間らしく、私らしく。そうしてアイコンを作り上げた。ひょっとしたらひとりでではなく、何世代もかけて。その省略した部分を集めたようないきものと出会ったら何を感じるだろう?

「♍17力の解放」はフネ、噴火する火山。「♍16大猿と対面」では人間のこどもたちとオランウータンが檻越しに顔を合わせる。♍16の段階ではまだ顔を合わせただけで、どうなるとも決まってはいない。見つめ合うだけ。きみはだれ? 自分と関係があるもの? ♍17で動きがうまれる。

「ドラゴンボール」で言えば「♍16大猿と対面」は「自分は満月を見ると大猿に変身する」ということを知らない・知らされていない孫悟空が自分とは別のサイヤ人が大猿になるのを見て「何だあれ?!」になっているところ。まだ目の前の大猿と自分が結びつかない。♍17で結びつく。

第1度数と第2度数。刺激とそれに対する反応。二者の間にはタイムラグがある。マンガなら、まず刺激になるもの(たとえば満月、たとえば大猿)を見て「あ」と気付くのが1コマ目。見たものに反応して自分自身の体や意識が変わり始めるのは2コマ目。♍16は1コマ目、♍17は2コマ目。

5度組の第1度数、♍16で火種が置かれる。第2度数、♍17でその火種と自分の中にある「何か」が繋がる。きみは何者だ? と思って眺めていたものが我が身と結びつく。♍16はある意味まだ対岸の火事だった。♍17でそれは我がこととなる。自分の中の大猿が立ち上がる。山が火を噴く。

(今更何をという感じですが当番は容赦なくネタバレする方の人です、あしからず)ディズニーのアニメーション映画『モアナと伝説の海』に溶岩の悪魔テ・カアというキャラクターが登場する。このテ・カアは主人公が母なる島テ・フィティ女神の心臓を元に戻そうとするのを邪魔する。

(当番はネタバレ魔注意)しかし、最終局面になって溶岩の悪魔テ・カア自身が心臓を奪われ怒り狂う女神テ・フィティだということが判明する。主人公はテ・カアに「そのこと(心臓を奪われたこと)はあなたという存在を規定しない(this does not define you)」と歌いかける。

心臓を奪われ溶岩の悪魔テ・カアへと姿を変えても、そのことはあなたを規定しない。あなたの正体を思い出して(remember who you are)と主人公はテ・カアへ呼びかけ、心臓を彼女の胸に戻す。すると荒ぶる溶岩の悪魔テ・カアは緑ゆたかな母なる島テ・フィティ女神に変身する。

テ・フィティとテ・カアはひとつの存在のふたつの面。「モアナ」は南洋の島と海を舞台にしていて、その辺りの島は火山島だから「最初は荒々しいテ・カアだった存在が後から緑したたるテ・フィティになり、更に心臓を奪われたせいで再びテ・カアに変身した」が自然な成り行き。

『モアナと伝説の海』に象徴的な台詞がある。神々の賜物「魔法の釣り針」がなくては俺は「マウイ」ではない! と言い張っていたマウイが、最終決戦を終えてから言う。「ま、釣り針があっても、なくても、俺はマウイだ(Well, hook, no hook, I'm Maui.)」

主人公が怒り狂うテ・カァ=テ・フィティへかけた言葉「そのこと(心臓を奪われたこと)はあなたを規定しない(this does not define you.)」とマウイの言ったことは、同じ内容。釣り針があってもなくても、マウイはマウイ。心臓があってもなくても、あなたはあなた。

「釣り針があってもなくても俺はマウイだ」は「釣り針が俺を規定する――マウイかそうでないかを決める――のではない(The hook does not define me.)」という言い方もできる。テ・カァ=テ・フィティに向かって Heart, no heart, you're Te Fiti. と言うこともできる。

「モアナ」では繰り返し「○○があってもなくても、私(あなた)は私(あなた)だ」というメッセージが登場する。釣り針があってもなくても、俺はマウイだ。マウイが隣に居ても居なくても、私はモアナだ。怒り狂うテ・カァも母なるテ・フィティも同じ「あなた」だ。思い出して。

山が噴火する。火を噴いているときの山も、噴いていないときの山も、同じ山だ。溶岩の悪魔テ・カァを「病んだ(傷ついた)状態」と捉えて心臓を取り戻したテ・フィティを「治った(完全に戻った)」と捉えてもいい、健やかなるときも病めるときも、彼女は彼女だ。別物ではない。

大猿のときも、大猿ではないときも、孫悟空は孫悟空だ。穏やかなときの私も、穏やかではいられないときの私も、私だ。「そんなに荒れ狂うなんて、本当のあなたではない」? そんなことはない。荒れ狂う私も優しい私も私。頭から尻尾まで、火を吐く口もみんなひとつながりに私。

優しい私(あなた)も荒れ狂う私(あなた)も、どちらも私(あなた)。「自分らしさの証」を持っているときも、失くしているときも、どちらも私(あなた)。そういうことを理解するには、いっぺんその「自分らしさの証」を失くしてみたり、荒れ狂ってみたりする機会が必要だ。

「♍17力の解放」とトラインになるのは「♉17智謀vs意志」。牡牛座は地の不動サイン、まんなかの地。その数え17度は剣と松明の戦い。剣は知の象徴。小アルカナのソードは風。松明は意志の象徴。小アルカナのワンドは火。私の中にある鋭い剣と燃える松明、どちらが勝つ?

乙女座は地の柔軟サイン、おわりの地。その数え17度ではマグマが岩を割り、炎と煙を噴き上げる。♉17の剣と松明の戦いは♍17に来て松明(火)の圧勝となる。それまで見えていなかった力の解放。火を噴く山も噴かない山も山なのだ。おとなしい私も荒れる私も私なのだ。

「♍17力の解放」とスクエアになるのは「♊17健全な成長」。双子座は風の柔軟サイン、晩春の風。その数え17度は知性の頭へ溶け込んでいった健康の頭。あるいは意気盛んな若者の頭が成熟した思考者のそれへと変わる。まるで若さを「卒業」するかのように大人の階段を登る。

乙女座は地の柔軟サイン、晩夏の地。その数え17度では荒れ狂うことを「卒業」したりはしない。おとなの頭へ溶け込み回収されたりはしない。溶け込むよりも解き放ちたい。噴火したって、噴火しなくたって、山は山だ。溶け込めたって、溶け込めなくたって、私は私だ。

「♍17力の解放」は乙女座後半(復路)第1グループ(はじめ)第2度数(フネ)。乙女座前半(往路)の第1グループ第2度数と比べてみよう。「♍2主に従う」では風景を圧するように大きな十字架がそびえ立つ。「♍17力の解放」では火山が噴火して火柱と煙がそびえ立つ。

「♍1顔はアイコン」で整えた個人のアイコンは、「♍2主に従う」では十字架というより大きなアイコンの前に頭を垂れる。「♍17力の解放」で火山が噴火すると人間も大猿も一目散に逃げる。大猿は強い、でも火山のほうがもっと強い。テ・カァとマウイではテ・カァの方が断然強い。

野人/半神であり文化英雄でもあるマウイ(『モアナと伝説の海』)は言ってみれば♍16のオランウータン。人間の両親に捨てられ、神々に養育されて半神になった。体が大きく強く頭がモジャモジャで、機敏で器用。彼は並の人間よりはるかに強い。しかし♍17の火山に当たるテ・カアはもっと強い。

溶岩の悪魔テ・カアは恐るべき回復力を持つ。何度手首を落とされても、何度水を浴びようとも彼女の溶岩はすぐに赤く燃えあがる。尽きることのない熱。形は違っても、その限りない再生力は緑の母テ・フィティだったときと変わらない。それはただ、彼女のもうひとつの顔なのだ。

うまれたときのホロスコープで「♍17力の解放」はどのハウスにある? 2018年9月9日の太陽はそこを照らした。穴埋め #アストロ短歌 で確認しよう

「○○○○で(五音・ハウス) 塵も積もれば(乙女座) よく目立つ(太陽) 爆発的力の解放(♍17)」

#サビアンシンボル物語

【♍17力の解放 をより深く理解するための比較対象シンボルリスト】
♎17港の見張番(となりのサイン)
♏17自家受粉(60度)
♐17復活の祝い(90度)
♑17一息つこう(120度)
♓17春のお祭り(180度)
♉17智謀vs意志(120度)
♊17健全な成長(90度)
♋17一粒万倍(60度)


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