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サンタクロースと木星、ただしさとたのしさの話
2017年12月28日の長い長いツイートまとめ。この年のクリスマスシーズンはタイムラインでサンタクロースいつまで信じさせておくか論争が盛り上がっていた。
まだクリスマスとサンタクロースのことをかんがえている。当番はいちど火がつくと長いことくすぶるのだ。それにクリスマスは12日間続くしな。「ナイトメア・オブ・クリスマス(原題Hog Father)」という映画があってだな。地球によく似た異世界の、クリスマスによく似た夜の話。
地球によく似た異世界ではクリスマスによく似た祭りの夜にサンタクロースによく似た「ホグファーザー」なる贈り物配り爺さんがやってくる。「ホグ」は「ホグワーツ」の「ホグ」と同じで野ブタないしはイノシシだ。彼はイノシシの引く橇で空を飛ぶ。こどもたちは彼とイノシシのための夜食を用意して眠る。
ところがある年、ホグファーザーが失踪してしまった。それに気付いたのはこともあろうに「死神」。実はホグファーザーには贈り物配達だけではなくもうひとつ重要な役割があり、彼がいないとこどもに贈り物が届かないという以上の、敢えて呼ぶなら「禍」が起こる。死神はホグファーザーの代役を思い立つ。
そんなわけで、ちょっと浮世離れした死神のイケ爺(ナイス皺ではないがベリーナイス骨でその上イケボ)がサンタ風コスプレで人間界に降り立ち、人間界でナニーをしている死神の孫娘に「いやそれバレるってお祖父様」とツッコまれながらクリスマスによく似た夜の「おつとめ」を果たしていく物語。
なにぶん古めの作品だし、劇場公開用ではなくおそらくTV放送用に作られた前後編のドラマ(円盤では前後編を1枚にしてある)。特撮のクォリティやセットがちょっとアレなんだが、ニチアサの特撮番組観るような感覚で片目をつぶって観てみてほしい。占星術クラスタはニヤニヤできる筋書きだと思う。
サンタクロースによく似た「ホグファーザー」は、その世界ではこどもに贈り物を配達し終えたあと死ななくてはならない。彼が死ぬことで新しい太陽が生まれる。一般人はそれを知らないが死神は知っている。ホグファーザーが死なず、ただ「失踪」したままだと最悪、翌朝以降の太陽が昇らなくなる。
死神は自分が贈り物配達業務をこなしながら、孫娘に本物のホグファーザーを捜させる。紆余曲折あって本物のホグファーザーを見つけ、無事彼に死んでもらい、どうにか太陽を昇らせた後で孫娘が訊ねる。「これ失敗していたらどうなっていたの?」死神は答える。「巨大な燃える気体の球が代わりに昇る」
無論、孫娘は「ハァ?じゃあ今までの色々は茶番だったの?」と死神に喰ってかかる。「いや」と死神は答える。そこから『陰陽師』の「呪とは名前だ」みたいな話になってくんだが割愛する。物語はその後も二転くらいするのでよければ最後まで観てほしい。
「太陽が昇らなかったらどうなっていたの」「燃える気体の球が代わりに昇る」はナルニア国シリーズの…『朝びらき丸』だったかな、ユースチスと「引退した星」の「星は燃える気体の球だよ」と「それは『星は何でできているか』であって『星は何であるか』ではない」という問答にちょっと似ている。
ホグファーザーが死んで新しい太陽が生まれなくても、翌朝巨大な燃える気体の球が昇って世界を照らす。ホグファーザーがいなくても世界は終わらないけれど、「ホグファーザーが太陽を昇らせる世界」は終わる。名前が変わってしまえば、同じように見えるものも前と同じではないのだ、というような話。
『ナイトメア・オブ・クリスマス(原題HogFather)』で私が思い出すのは『朝びらき丸』と『となりのトトロ』、そして夢枕獏の『陰陽師』。「ホグファーザーが祭のあとに死に、新しい太陽を昇らせる」は「トトロが来て、ドングリを発芽させる」に似ている。
ホグファーザーが死ななくても、例年の新しい太陽の代わりに巨大な燃える気体の球が昇る。トトロが来なくてもドングリはたぶん発芽する。ホグファーザーとトトロを取り除いても、似たような朝が来て似たような芽は出る。魔法の贈り物は家族や友人との贈答に変わり、巨木を育てる踊りは一夜の夢になる。
重要なのは夢や幻や空想という覆いを剥ぎとった後に何が残るのかということ。代わりに何を差し出す用意をもって他人の夢や幻や空想という覆いを剥ぎ取るのかということ。「サンタクロースはいない」「トトロはいない」自体はあまり重要ではなく、その後に小さな芽が残るか残らないかが重要。
サンタクロースという覆いを剥ぎとった後に「顔と名前のある現実の人間が毎年贈り物をくれていた」という小さな芽が残るのか、残らないのか。それとも「サンタクロースはいない」は「だから贈り物は来ない」「だからお前に何かを与える気はない」と宣言するために使われるのか。
自分が着込んでいた覆いを自分で脱ぐ分にはいい。脱ごうとしてうまく脱げずに手助けを求めてきたこどもを、おとなが手伝うのもいい。ただ、まだ着込んでいたい、脱ぐ気がない子の覆いを一方的に乱暴に剥ぎ取るのはよくない。外は冬だよ。
それはマッチ売りの少女の手からマッチを叩き落とすだけ叩き落して、金を与えるでもなく宿や食事を提供するでもなく雪の路上へ置き去りにするような所業だ。なお「ナイトメア・オブ・クリスマス」にはマッチ売りの少女が登場するし、サンタの代役をこなす死神はそのマッチ売りの少女を救助する。
サンタクロースを先に疑い、サンタクロースから先に卒業する年かさのこどもに、おとなが「まだサンタクロースを必要とする幼いこどもたちにはそれを告げないように」と口止めするのは、それを待ち望むこどもに「サンタクロースはいない」と告げることが夢の追い剥ぎ行為だからだ。
もう夢のマントを必要としなくなったこどもに、それをずっと押し着せておくのもよくないけれど、まだ脱ぎたがらないこどもから夢のマントを取り上げるものじゃない。サンタクロースがいるかいないかをつまびらかにすること、いるかいないかで争うことはクリスマス精神に反する。
「安息日にすべきことは、善を行うことか、行わないことか?」「クリスマスにすべきことは、他人の心を暖めることか、それとも冷やすことか?」誰かを助けるとか、楽しみに待つこどもを喜ばせるとかの「強いきまり」に比べたら「サンタを信じるか信じないか」なんて「弱いきまり」でしかないんだよ。
「空気読め」という話でもなければ「同調しとけ」という話でもない。まだサンタクロースを必要とする子、サンタクロースを待ち望む子に「サンタクロースはいない」と告げることは、告げられた子の心を暖めるか冷やすか?それを告げられた子の喜びを増やすか?という問題。
たとえひとつ20円の駄菓子でも、いつか吐き出すものだとしても。君の舌にまだ味がするうちは、君がふくらませて遊べるうちは噛んでいていいんだよ。その、サンタクロース印のフーセンガム。
味がしなくなったなら、味はまだするけれど飽きたなら、吐き出せばいい。
サンタクロース印のフーセンガム、飽きたり味がしなくなったり、コドモダマシの駄菓子が嫌いだったり、前は好きだったけど今はもう欲しくないなら単に「いらない」と断ればいいだけ。前は欲しいだけフーセンガムを与えることができたけれど今年からは無理なら「諸事情によりガム売切れ」と言えばいい。
だけど今まさにサンタクロース印のフーセンガムを味わい楽しんでいる子が大きくふくらませたガムに指突っ込んで割って回るこたぁない。第一にそれはこどもを傷つける。第二にそれはおとなげない行為である。ついでに、他人のふくらませたフーセンガムに触るのは不衛生だ。
サンタクロースはコドモダマシのフーセンガムであり、ふくらんだ袖の服であり、非現実的で空想的な存在であり、透明マントにもグルメテーブルかけにもなる大風呂敷だ。それは木星だ。クリスマスプレゼントは現実(土星)にバトンタッチして死んでゆく夢(木星)が贈る、冬のログインボーナスだ。
ちなみに、実際サンタクロース何歳まで問題ですが、当番的には「その子の最初のジュピターリターンあたりが節目かしらねえ」とざっくり思っています。つまり12歳あたりね。木星は約12年周期だからさ。
子供が吐き出したサンタクロース印のフーセンガムを他人がもったいながって拾いあげて「まだ噛んでいろ」と口に押し込もうとするのはキモチワルイし虐待だぁな。本人がもう要らないと言っているのに新品のフーセンガムを与え続けるのも困るわな。
「ただしさ」と「たのしさ」の問題。それはたった一文字の違い。「ただしさ」も「たのしさ」も、受け取る相手がそれを望んでいれば素晴らしい贈り物になる。素晴らしい贈り物は喜びを増やす。しかし相手がそれを望んでいないなら、どんなに贈る側がたのしくても客観的物理的にただしくてもいやげ物だ。
「受け取ったひとの喜びが増えるかどうか」「それを渡すのは自分だけがたのしいのか、それとも受け取るひともたのしくなれるものなのか」を考えるのが贈り物。ところで「相手が喜ぶかどうかを考える」というのは「相手が喜ぶかどうか『予測して絶対に当てなければならない』」とは微妙に違う。
「相手がどう思うか、喜ぶか悲しむか『予測して絶対に当てる』」は難しい。そんなことを目標に掲げたら潰れるし、贈り物は開けてみるまで当たりか外れかわからない。想定外の喜びや悲しみもある。だからといって「相手の気持ちなんてわからないんだから勘定に入れなくていい!」とはならない。
「相手の喜びが増えるかどうか」「ひょっとして私がたのしくなるだけではなかろうか」「万が一にも相手が悲しむことにならないだろうか」と「ちょっと考える時間を持とう」というだけの話で、それは「車道を横断する前に左右を確認する」というようなこと。「必ず当てなくてはならない」ではない。
贈る側だって無い袖は振れないんだから「誠に遺憾ですが私の懐事情により、限度額はこれくらいです」「今はこれが精一杯。ごめんやで」は言っていいと思うんだよ。でも「お前の喜びを増やしてやりたくなんかねえよ、むしろ減らしてやんよ」とわざわざ態度に出すのは悪意に満ちた行為だと当番は思うよ。
貧しい者の「あなたを喜ばせたいけれど、今はこれが精一杯。ごめんやで」に幼子イエス様が「ええんやで、その気持ちが嬉しいんやで」とほほえんだよ、という話がクリスマスソング『リトル・ドラマー・ボーイ』でありトミー・デ・パオラの絵本『神の道化師』だ。
お小遣いでオーデコロンの小さい瓶をお母さんへの贈り物に買って、お釣りで自分のものを買うと言っていたのを思い直し、全額つぎ込んで大瓶に交換してきた『若草物語』の末っ子エイミー。そのお母さんに促されて自分たちのクリスマスディナーを病人一家へ持っていく四姉妹。
自分の取り分を減らしても、思う相手の喜びを増やそうとする物語。若草姉妹は更にそれを見ていた隣家のお金持ちからクリスマスディナーを届けられるわけだけども。O. ヘンリの『賢者の贈り物』は貧しい夫婦がそれぞれ配偶者に贈り物をしたいと願い、自分の手持ちの宝を売り払ってそれを買う。
夫は懐中時計を売って妻の美しい髪に飾る櫛を買い、妻は髪を売って夫の大切な時計に合う鎖を買う。「いや事前に話し合えよ」とか「今年は妻、来年は夫がもらうとかでもいいだろ?」とか「そんなに貧乏なら贈り合うなよ」という話ではないのだ。「ふたりとも相手の喜びを増やしたいと願った話」なのだ。
髪のない妻と時計のない夫、髪に挿せない櫛と時計につけられない鎖が残った。目に見えるもの、そして家計簿的には「失敗した買い物」であり「贈り物」だけれど、ふたりの間に喜びは増えた。配偶者が自分の喜びを増やしたいと願ってくれたという喜びを互いに受け取った。
「ただしい」と「たのしい」。「たのしい」は「らく」と言い換えてもいい。自分が誰かに渡そうとしている「ただしさ」や「たのしさ」や「らく」。それは自分だけがたのしい? 自分だけがらく? それとも受け取る側も「たのしい」「らく」のどちらかになれそう? あげたら「よろこび」の総量が増えそう?
「ぜったいにアタリじゃなければいけない」んじゃないんだ。「ただ今の予想」でいいんだ。予想が当たらなくても怒らないよ。ただ、受け取る相手が何を受け取るかによってよろこんだりかなしんだりすることを無視しないでほしいし、相手のよろこびがふえるよう願って贈り物や行動を選んでほしいんだ。
自分ができる範囲でいいし、はずれちゃったり力不足だったりしたら「ごめん、できなかった」でいい。「相手のよろこびがふえるかな」「相手もたのしいかな」「相手もラクかな」と、差し出す前にひといきいれて予想する時間をとるだけ。その上で差し出す。「心尽くしの贈り物」とはそういうこと。
朝からずっと木星感溢れるツイートをしている当番です。土星感や金星感や水星月太陽火星その他の天体感溢れるツイートは、その天体感溢れる別の誰かがしてくれるじゃろ。特に土星感溢れるツイートは私以上に上手いひとがフォロイーさんに複数いるんだし。
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