ポータブル親としてのパトローナス
2014年12月28日のツイートまとめ。2014年にもパトローナスの話をしていた当番。この頃の当番は自己レスによってツリーを繋げて話すということをしていなかったのでサルベージがちょっと大変。以下、当時のツイート。
2019年のパトローナス話はこちら
【最初は「ポータブル親」の話だった】
海くらげさん(Twitterにおける当番の相互フォロワー)の「現実の親本体から切り離した、ポータブル親」という論を見て、ついこれを思い出してしまう。ピノキオと、そのポータブルペアレントに任じられたひと。まあピノキオ、ポータブル親の言うことをちゃんと聞きはしないんだけど……
ポータブル親。うーん。なぜポータブル親が必要か。いい感じのポータブル親を持っとくとどういうときに助かるか。生身の他人に自分の親役を投影せずに、少なくともし過ぎずに済むかもな。親分風吹かせてくるひとに「うち、親は間に合ってますんで」って言えるかもな。それがリアル親であってもな。
ポータブル親のことを考えている。ポータブル親に子供(かつて子供であったひと)が求めているものは庇護と安心感、そして導きかな。庇護や安心感を与えるポータブル親、あるいはポータブル親を何か、具体物に託したようなものを持っている(連れている)子供のキャラクターは物語によく登場するよね。
完全に内的なものになってしまうと具体的に目で見て手で触れるものでなくてもよくなるのだけど、たとえば『ピーナッツ(スヌーピー)』のライナスと彼の毛布、『セーラームーン』のちびうさとルナPボールは安心感や支えを与えてくれる「携行可能な親に似たもの」であるような気がする。
ぬいぐるみも、時として「携行可能な親、のようなもの」になる。新井素子のぬいぐるみホラー(?)『くますけと一緒に』のくますけ。川原泉『笑う大天使』の番外編『オペラ座の怪人』に出てくるテディベアのルドルフ氏。『クマのプーさん』のプーさんは親というよりイマジナリーフレンドだと思うけど。
ディズニー版『ピノキオ』のピノキオと、その「良心」ジミニー・クリケット。ピノキオはジミニーに懐いているわけではなく、彼を軽んじたり無視したりするけれど、それでもジミニーはピノキオを見捨てることがない。「子供が何をしても決して見捨てない」はポータブル親の機能として重要だと思う。
【「ポータブル親」からパトローナスの話題へ】
『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』から登場した「パトローナス(邦訳・守護霊)」というものも、言葉の意味からして自分の中にいる、生身の親ではないけれど自分を守ってくれる親のような力であると思われる。PatronusはPatron(パトロン), Pater、つまり(父)親だもの。
ハリー・ポッターシリーズのPatronus Charmはディメンター(Dementor)を自分に近づけないために使われる。ディメンターは人間の楽しい気分を吸い取りうつ状態に陥らせ、ひどいときは正気を失わせる。
Dementorの元の言葉、dementという動詞はde(なくす)+ment(mind 心・精神。感情ではなく頭のはたらき、認識力の方ね)の組み合わせで成り立っている。ディメンターは正気を失わせる、認知を歪めるあるいは低下させる力を持った魔法生物(……生物……?)なんだよね。
そのディメンターを自分に近付けない、悲しい体験やつらい記憶を思い出して何もできなくなってしまうことを防ぐための唯一の魔法が Patronus Charm。パトローナスを召喚するためには、「いちばん幸せな記憶」を思い出し、それに強く集中することが必要だとルーピン先生は教える。
ハリーのパトローナスは父ジェイムズの変身姿と同じ牡鹿の形をしている。トンクスのパトローナスは、ルーピン先生を愛するようになってから形を変え、オオカミに似た形をとるようになった。スネイプ先生のパトローナスは雌鹿の姿で、これは亡きリリー・エヴァンズのパトローナスと同じ姿。
全ての魔法使いがそうだとは限らないが、ハリーやスネイプ先生やトンクスのように、パトローナスがそのひとの愛するひと(あるいはそのひとを愛してくれたひと、かもしれない)を思わせるような姿をとる場合もある。それは彼らの幸せな記憶が、愛した/愛されたひとに結びついているから。
ドラえもんはのび太くんのポータブル親、だろうか…ちょと違うような気もする。
生身の親とは切り離した、ポータブル親。そのひとの内面にいて、そのひとが何をしても見捨てない、いなくならない、たとえ兄弟姉妹が何人いたとしてもそのひとのためにだけ存在する、自分専用の脳内親(脳内嫁みたいでアレだけど)。そんなものがある、自分にはそれが存在する、と仮定して、暮らす。
なぜポータブル脳内親を持つ必要があるか、というか、それが脳内にいると、子供(あるいは元子供)にどんないいことがあるか、と考えてみたんだけど、現時点では「それはハリー・ポッター世界で言うところのディメンター除けとしてはたらくから」というのが私の意見。
【『くますけと一緒に』は新潮文庫で読めるよ】
新井素子の『くますけと一緒に』という小説の話。主人公の女の子は、「くますけ」というぬいぐるみを手放せなくて実の親からも異常な子として扱われてる。「くますけ」は主人公の女の子とだけ話すことができる。よくあるイマジナリーフレンドものか? と思いきや、この「くますけ」ちょっと毛色が違う。
「くますけ」は、なぜだか主人公の女の子よりかなり多くの物事を知っている。小学生の主人公が理解できない難しい言葉を、やさしい言葉に言い直して説明したりできる。女の子は、親に言えない不安や悲しみを「くますけ」になら打ち明けられる。
ある日、女の子は「くますけ」に、「親なんかいなくなってしまえばいいのに」と願ってしまう。そうしたら数日後に親がふたりとも事故で死んでしまった。女の子は自分が「くますけ」にそんなことを願ったからだと思い込んで自分を責める。そして悪夢に魘される。両親が自分を責め続ける夢。
この女の子の両親というひとが、実は女の子にとって「親の皮をかぶったディメンター」だったんだよね。「お前は異常な子だ。パパは、ママは、こんなにお前のために苦労も努力もしたのにお前はまだぬいぐるみを手放せない。親の愛が足りないからだと医者に言われた。何もかもお前のせいだ」って責める。
私、いつもながら全くネタバレを憚らないけれど。「顔は親だけど、やってることはディメンター」なふたり(の亡霊)は、女の子の自己肯定感を奪い、親の期待に沿えないからお前は失格だと責め、我々が死んだのもお前のせい、お前は幸せになってはいけない子だと女の子に思い込ませてしまう。
そのときに「くますけ」が女の子を守ってくれる。「お前らなんか親じゃねえや!(意訳。実際の台詞は違う)」と言って。「天地神明にかけて、ぼくはこの子を傷つける者を絶対にゆるさない」と言って。ディメンター親を追い払うパトローナスとして、女の子を背中に隠して、そう言うんだ。
そんな物語がどうして「ぬいぐるみホラー」なのかというと…「くますけはイマジナリーフレンドじゃなくて女の子が生み出したパトローナスだったんだね、よかったね」という中締めの後、最後の最後で「くますけ」がすごく怖いことをひとりごちるから。
【セヴルス・スネイプくんの『幸せな記憶』がリリーであったということ】
スネイプ先生のパトローナスが雌鹿(≒リリー)だった、ずーっとずーっとそうだったていうのがもう、さあ…マグルの父が魔女の母を殴るような家で育った、非社交的で他人にあまり心を開かない、学校ではいじめられてたセヴルス少年の、幸せな記憶は全部リリー絡みだったんだと思うとさあ、もうさ……
学校でデスイーター予備軍に染まって、自分も片親がマグルなのにそれを嫌って「半純血」と自称して、そして両親ともにマグルのリリーに決定的な失言をして彼女を失って。それでもずっとスネイプ先生のパトローナスは雌鹿であり続けたっていうのがさ……それしかなかったっていうのがさ……
ところで閉心術ってディメンターに効くのかな。一応効かないと仮定して。スネイプ先生でさえ、ディメンターに生きる希望や気力を吸われて判断力を失くすのを防ごうと思ったら、パトローナスを召喚するしかないのだとして。召喚のたびにリリーとの短い幸せな記憶を思い出してたんだと思うともう、さ……
スネイプ先生…><。。。。
スネイプ先生は人生のどの時点でパトローナス召喚魔法を習得したんだろうなあ、って妄想しちゃうのよねえ。優秀な魔法使いであったスネイプ先生も、習得までにはかなり失敗したと思うんだ。そのたびにつらい記憶を思い出し、そのたびにリリーとの幸せな記憶に集中しなおし……これは泣く。
【パトローナス召喚魔法は自分以外も守れるのが強み】
パトローナスは、自分自身の心(マインドの方)をディメンターから守るだけでなく、他人も守れるんだよね。パトローナスを出せない魔法使いやマグルがいても、誰かひとり強力なパトローナスを出せればディメンターは追い払える。便利。ハリーは自分のパトローナスでシリウスもダドリーも救ってる。
パトローナスならぬポータブル親は自分以外を守れるのかわからないけど。
エクスペクト・ベイマックス(訳:ベイマックス観に行きたいです)!
【2024年10月追記】
ええ、ちょうどこの2014年12月28日辺りって『ベイマックス』日本公開から1週間後ってタイミングだったんですね。だから話の終わりにベイマックスが出てくる。ベイマックスも「ポータブル親(ポータブル兄)」であり、主人公のパトローナスだったよなって、これを書いてから10年経った2024年現在、思います。エクスペクト・ベイマックス!