「違い」についてスピーチして凹んだ思い出を、別解釈するようになった話
かれこれ35年くらい前。20歳の私は渡米した。4週間の短期語学留学でボストンにいた。
当時の私は、今の私より英語が話せなかったと思う。今の私もそんなには話せない、けれど、自分から自分について語ろうとする分、当時の私よりも話せるような気はしている。
それはさておき。学校での英語の成績は比較的良いほうだったけれど、英語をしゃべる自信がなかったころの話。
たった4週間の短期の語学留学で、そんなにびっくりするほどは英語力は進歩しなかったと思う。ただ、それでも「英語を話そうとすれば伝わる」ということくらいは習得できたように思う。
初めて、外国語を話す人たちの前で英語のプレゼンテーションをした
4週間のクラスの集大成として、プレゼンテーションをするという課題があった。当時、プレゼンテーションなんていう言葉は知らなかった。少なくても、日本の大学生がカタカナで「プレゼン」という言葉を使うことはなかった時代。
スピーチ、と言っていたと思う。
テーマは自由。他の人たちは、歴史や経済をテーマに語る人が多かったと思う。その中で私は非常に抽象的なテーマを選んだ。
「Difference」人との違いに対しての日本人の感覚。
これは、初めてひとりで海外へ、アメリカに行った私が、日本人を少し離れたところから見て感じたことだった。日本人は「違い」がこわい。人と違うことがこわい。みんなと同じでいることが安心で、好き。…ということを、浅く掘っただけのスピーチだった。
ほかのみんなは、専門用語を駆使した立派に聞こえるスピーチをしていたなかで、私の語学力的にもむずかしいことは選ばず、自分の言葉で語れるテーマとして、感じていた「違い」をしゃべってみたのだった。
スピーチのあとには、みんなから質問や感想が上がる。日本の学校では見たことがないくらい、みんな我先にと手を挙げて発言する。
その中で、たしかスペイン人だったと記憶している、目の大きな浅黒い顔の男子が私に言った。「人と違う、ということを考えるなんてナンセンスだ」と。そう記憶していた。
記憶は間違う
その男子も英語が母国語ではないし、私もそんなにしっかりとは聞き取りができない。しかも、スピーチをした直後で、まだ緊張していた。
自分のスピーチに自信がなかったから、「『違い』なんてものをテーマに選ぶなんて、つまらないことだ」といわれたと、解釈していた。
それから、まぁ35年近くたって、日本人もようやく「個性」について語ったり考えたりすることが多くなった昨今。その拙いスピーチのことをよく思い出すのだ。
スピーチの内容はもう忘れてしまったし、紙に手書きしたはずの原稿も、たぶん捨ててしまったんだと思う。だから、正確にはどんな話をしたのかはわからない。
けれど、最近思うのは、その「つまらない」という評価をした男子の言葉は、私のスピーチに対して「つまらない」と言ったわけではなかったのかもしれないな、ということ。
彼は、「そんな『人と違うこと』をおそれるとか、悪いなんていう感覚がナンセンスだ」という感想を言ったのであって、私のスピーチを「ナンセンスだ」と批判したのではなかったのではないか?と。自信がなかった私は、完全に凹んでいて、人の言ったことを悪いようにしか解釈できなかったんだと思う。
スピーチのあと、その彼は私をさげすむようなことはなかった、かといって急に仲良くなったわけでもない。
ただ、彼はヨーロッパの人として、「人と違うことをネガティブにとらえるなんて、おかしいよ」と言っていただけなんじゃないか、と、今の私は気づいた。
これは、ただ年月がたって、物ごとをいいようにとらえようとしているだけかもしれない。それでもいい。あの「違い」について語ったスピーチは、きっと悪くはなかったんだ、と思えるようになった。そういうことなんだ。