見出し画像

アンデスの峰で未だ影を落とす征服の歴史と、現代社会、国、人について考えた

標高4000m超えの「雲上の列車」を楽しみにアルゼンチン北西部の街 Salta からアンデス山脈を登っていく道中、現地の若くてキレイなガイドさんが語ってくれた現地の数々の歴史と現状は、本当に驚くべきものだった。



Salta からバスで19時間の首都ブエノスアイレスに住む私にとって、アルゼンチン北部の州というのは全く別世界で違う国に思えていたくらい。


どこまでも延々と続く霧深い渓谷を登っていくと、ふいに見慣れた緑の中に山程のサボテンが山肌を覆う。


更に標高3000mを超える辺りになると高い樹木は育たず荒野の様相を呈す。



そんな、生命が宿ることさえ難しく思える土地に、ふいにポツリと家が現れる。どうやってココで暮らしているんだろう…、と考えていると完全にそこから遠く離れた場所にまたポツリと家が現れる。


自身もこの土地で生まれ、Salta の州都に出て学んだというガイドちゃんが語ってくれたのは、とある神父さん(2011年に46歳の若さでに亡くなられている)のお話。


なんとこのインディオ(原住民)の地は、2001年まで住民は読み書きができなかったという。

政府に見捨てられた彼らのために、彼は歩いてこの土地に点在する(その距離は計り知れない)インディオの集落を訪れ、彼らの信頼を得るために彼らの言葉を覚え、学校を設立するために奔走し、貧しさから彼らを救うために闘った。



お金が無くなると自身の聖書や靴を売り、裸足で道路に立ち、インディオ達の民芸品や農産物を売り、彼らに売上を渡し、この土地に初めて「お金」というものをもたらした。


「物を売る」というコトを知らず、とても引込み思案で人見知りな彼らに、物を売るコトを教え、学校を設立し、教育によって新たな扉を開いた。


透明な水すらなかった土地に水道を、とのプロジェクトにブラジルの企業が賛同し、小さな集落に初めて「飲むことのできる水」が現れ、朝一番に川まで水を汲みに行く、という重労働から彼らは開放された。

「アフリカの話じゃなくて、私達の国で起こってることなんですよ!」とガイドさんは声を強める。


いつものように、渓谷から渓谷へ、荒野から荒野へと住民達を訪れる道中で彼は数百メートルの谷へ滑落し、全ての背骨を骨折した。


Salta では彼を治療できる病院がなかったため、ブエノスアイレスの病院で治療を受けるも彼が回復することはなかった。


そんな中「学校はどうなっているだろうか、誰が教えて、誰が通っているだろうか」と心配する彼は病院を抜け出し、この地へ帰ってきた。


彼を敬愛する子ども達が、彼が動けるようにロバに括り付け、彼が彼らにしてくれたように本を読み聞かせ、そんな中で奇跡的に彼は回復していったという。


しかし数年後、膝から落ちたのが災いし、ついに彼は命を落とす。

自身が建てた小さな教会で、小さい女の子と写ったたくましく日に焼けた笑顔の写真の下に彼は永眠していた。

彼の話は百年前の話ではなく、この私達が生きている現代の話。

この話を聞いて観光バスの中で胸が熱くなり、涙が込み上げたけれども、「原住民の集落を助けるため」と、何台もの大型観光バスで乗り付ける私達を迎え「仕事として」朝食を提供してくれ、民芸品を見せ売る姿(実際はボランティアが取りまとめ収益を渡している様子だったけど)に少しの違和感を覚えなくもない。


日本と到底比べものにならないのは分かっている。でも地方の山奥で育ち、教育の「おかげ」である意味「自由」になり、都会へ行き、「良い成績をとって、良い会社に入れば幸せになれる、家族を幸せにできる」と思わされていた私は、生まれ育った土地を離れるということ、快適な都会の暮らしを知って田舎に戻るということが難しいこと、結局、家族をバラバラにしてしまうこともあるというコトを知っている。


パチャママ(大地の神様)を大切にし、自分達の必要性以上に作物や動物をとることは決してしないという彼ら。

「足るを知る」生活をしてた彼らの社会に入った「お金」は、「現代社会の在り方」は、自分達が「貧しい」、「足りない、もっと、もっと」という生活へと彼らを導きはしないだろうか。


厳しい厳しい彼らの生活を知らずに、こんなコトを言うべきでないのは分かっている。

この時代に彼らが享受すべき文明の利器や、教育による新しい扉を開く機会が与えられるべきコトも。


「この土地にはインカ帝国の前から文明が存在し、この土地は征服者のスペイン人との戦場になった。だからこそ、なんとも言えない感情を呼び覚ます」と彼女は言った。


Salta からチリへと続く鉄道がこの渓谷を走るコトになった時、Salta の人達、この山間の人達の生活は激変したという。


4ヶ月かけてアンデスを越え、商売に出かけていた人達が数日でチリにたどり着けるようになったのだ。


その鉄道を開拓したエンジニアの話も胸に迫る。

アンデスの土地の難しい地盤や標高に鉄道を敷くというのは大きなチャレンジだった。


政府は素晴らしい頭脳をもつアメリカ人のエンジニアを採用する。

当時、アルゼンチンはヨーロッパからの移民で溢れていた。イタリア、スペイン、ロシア、ドイツetc の移民で建設するという政府に、「原住民以上に土地のことを知っている人達はいない」と、半数を原住民で構成するよう抗議。


彼の希望は取り入れられるが、政府はヨーロッパ移民へはお金を支払い、原住民にはお米やパスタで支払いをごまかした。


すると、原住民の言葉を学び敬愛されていた彼は「抗議すべきだ」と原住民を説得し、ストライキを起こす。


彼は現地の人達からはとても愛されたが、政府や企業からは憎まれた。

ある一定のトコロで彼はプロジェクトから外され、あんなにも素晴らしい鉄道を残し、Salta に貢献した彼の名前は歴史から抹消された。


しかしガイドの彼女は情熱を込めて「この地に住む私達は誰でも知っている。あの鉄道を建設したのは彼だと。」と言う。


そして、1960年に全盛期を誇ったこの鉄道も、1980年代の民営化を進める大統領の政策によって切り捨てられてしまう。


現地の人達の生活が潤うことよりも、鉄道としての利益があるかどうかが判断基準となり、真っ先に切捨てられたそうだ。


ここで、現在の過激な大改革を進める新大統領の民営化が頭を過ぎる。

国が守らないといけないものを守らなくなった時、一番に切り捨てられるのは、一番それを必要としている人達のものだ。


Salta だけではない、アルゼンチンの北部の州では原住民への差別が未だ続いている。

数年前まで病院での受入拒否、スーパー等に入れないというのは日常茶飯事だったらしい。


この、どこまでも続く広い広い土地はもともと彼らのものだ。

何年もの抗議の末、政府はこの広大な土地の僅か5%を彼らの土地と認めたという。
(現在は半々?になったとか)


そんな酷い扱いに抗議するため、原住民の小さなグループが歩いて(何日かかったのか想像もできない)ブエノスアイレスの大統領府前まで行き、現状に対応するよう訴えたが、誰一人として大統領府から彼らを迎えに出てくることはなく、代わりに彼らを迎えたのは警察。

無事に Salta へ帰ったのは女性と子どもたった二人で他の人は消息不明。
これもそんなに昔の話ではない。


政府への反対因子は徹底して消された時代。

彼らの無念を思うとあまりに胸が痛い。


そして彼らは「正式に」政府と闘うため、スペイン語の読み書きを覚えた。法律を学び、自分達の弁護士を立て、裁判を起こし、重要な権利を謳う法律を勝ち取った。


しかし、なんと皮肉な話だろう。

何千年も前から住む自分達の土地を取り戻すために、自分達の権利を勝ち取るために、征服者の言語を学び、法律を学ばないといけないなんて。


土地ってなんだろう?国ってなんだろう?

何百年に渡って、政治に?国に?実は本当は自分達の暮らしに関係ない人達に翻弄された原住民の話を聞いて、その美しさに触れただけで涙を流している人もいた大いなる大地を見ながら、色々考えさせられた一日なのでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?