My sweet Hawai'i
*この記事は2017年10月16日に書いたものです。発表会が落ち着いて時間もできるしそろそろ文章でも書いてみようかなー。という気持ちになって書いた途端、忙しくなって継続できなそうだなと公開を断念していたものです。これからも頻繁に更新できるかは微妙だけど、焦らずに少しづつ、綴っていけたらいいなと思います。
主宰している下北沢のバレエ教室の一大イベントである発表会を無事終えて、夫と9泊のご褒美ハワイ旅行(オアフ島&ハワイ島)に行ってきた。
ハワイは、わたしにとって初めての外国。家族の思い出がたくさん詰まった地。観光地じゃないから、という父の考えで夏休みも冬休みもここで過ごした。なんとも約20年ぶりのワイキキは、あれーっ?こんなんだったかな?というくらい様変わりしていてセンチメンタルになることもなかったけれど、ロイヤルハワイアンのピンク色は相変わらずうっとりするほどラブリーだったし、アイスコーヒーは薄くてたっぷり入ってた。
毎日何にも決めないで、目が覚めたら体を軽く動かして、コーヒー淹れて、ラナイでパパイヤと一緒に朝食にして、暑くなる前にお散歩したり、海に入ったり、歌を歌いながら絵を描いたり、木陰でちまちま本を読んだり、ABC MARTでポケやポテトチップやケーキやビールやワインやお惣菜をたっぷり買い込んで、気がすむまで食べ比べしてゲラゲラ酔っ払って、クーラーの効きすぎた部屋でお布団かぶって日本のテレビ番組を見てホッとしたりした。何をするにもしあわせだねぇと全身緩みきって。
こどもの頃みたいな絶対的な安心感に包まれて、こういう普通の穏やかな時間を再び味わえるなんて、去年までの私には想像もできなかった。なにより新しい小さな家族ができるなんて。
母が突然天国へ旅立った時、わたしは18歳になったばかりで、高校の卒業式を終えて2日後だった。そのずーっとずっと前、「ママはカオちゃんが18歳になって、高校を卒業するまでは、絶対に死なないから」と一度だけボソッとつぶやいたことがあった。すでに私が小学生の頃に余命宣告を受けていたと、母の死後父に聞かされた。幼い頃の不思議な記憶としてすみっこに眠っていたその言葉の重さと深さを、その日からずっと引きずって、今も完璧に信じている。良くも悪くも、決めたことは絶対にやる。ということが当たり前なのは、母のこの姿勢がとても強く影響していると思う。
今でこそ、自由人に見られがちな私だけど、高校生の時に行ったフランスへの短期留学では毎日泣きながら「もう帰りたい!」と国際電話していたし、留学したくないがために大学受験勉強に精を出していたほどだった。でも、海外で視野を広げて踊ってほしいと母はずーっと言い続けていたので、入学したばかりの大学をあっさり辞めて留学することにした。ついこの間までここに存在した母親が、肉の塊に変わって灰になって消えてゆく様を見てしまったことで、いろんなことがわからなくなったけれど、踊って生きたい。という自発的な気持ちだけは、はっきりとわかった。それが母とつながれる唯一の方法になった。そんな風に18歳の春が来て、夏が来る頃、留学先に旅立つ前に「ママ(の写真)を連れてもう一回みんなでハワイに行こう!」と父が言いだした。
でも、残された家族3人でぽつんと降り立った夢の国は眩しすぎて、それが最後のハワイ、家族旅行になってしまった。
それから、一人、いろんな国に行って、たくさんの人と出会って、たくさん踊って、信じられないくらいたくさんの喜びも興奮も、悲しみも悔しさも、味わった。
母が身をもって教えてくれたように、愛はまっすぐなものだといつまでも信じていたかったけれど、その一途さで馬鹿を見た。こともあった。自分を信じているつもりで、気づいたら他人の人生を優先していた。こともあった。情けなくなるほどの裏切りも、この目でしっかり見てしまった。
何を批判するでもなく、否定するでもなく、人を正しさへと導くことができる自然の営み。ここにいて空を見上げるだけで、体のどこかがかちかちと、あるべき場所に戻っていくのがわかる。
ホテルのレストランから悠々と泳ぐマンタたちを眺めながら、あまーいソースのかかったお刺身とパイナップルの入った揚げ餃子をマンゴーカクテルで流して、ブリュレが品切れだったからチョコレートケーキとコナコーヒーで締めた。2人とも時差ボケで、メニュー選択を完全に間違えたみたいだったけど、全部トロピカルで甘すぎたけど、どれもとろとろと美味しくて、楽しかった。
ハワイ島に行ったら、夕方からのキラウエア火山の溶岩サイクリングツアーがお勧めですよ☆
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