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これまでの人生ふりかえり
こんにちは!伊藤香です。
わたしは、2024年3月に36年間過ごした三重県から関東に引越しました。
そのときの状況は以下です。
・年商3,000万のサロンを手放した
・お気に入りの持ち家があった(もちろんローンも)
・2歳5歳の子どもがいた
・関東に住んだことはない
まわりからは、本当にビックリされました。
「なんで?」「急にどうしたの?」とたくさん聞かれました。
しかし、まわりから見れば急な決断のようでしたが、実は随分前から考えていたことでした。
本当は、ずっとずっと「もっと、他のことに挑戦してみたい」と思っていました。
どちらかと言うと、「ずっと、決断できなかった」のです。
そのわたしが、なぜ決断をできたのか?
そして、これから何をしていくのか?
どんな未来を達成したいのか?
そこも含めて、これまでの37年を振り返ってみたいと思います。
認知のズレ、マインドのエラーに気づく
わたしは、エステティシャンですが、マインドのプロのコーチでもあります。
クライアントのマインドのエラーを見つけ、そこを取り除き「クライアントが"自分らしさ"を使い、仕事で圧倒的な成果を出せるよう」サポートしていきます。
新しい挑戦をするときに、本当の意味でジャマするのは家族でも上司でもなく「自分」です。
自分の脳が勝手に
「わたしにはできない」
「今はそのタイミングじゃない」
「家族に迷惑をかけるから」
など、様々な理由を作り出すんです。
それが理解できたことでわたしは「決断」することができました。
また、どんなに大変なことがあっても成し遂げたい未来があると気づいたこと。
逆に、10年、20年今と同じことを続けていく…これをイメージしたときに本気で恐ろしくなり
「そんなの絶対イヤだ!!」
そう思えたので、約10年続けたサロンを手放すことを決断しました。
コーチングの威力を誰よりもわかっているわたしだからこそ、クライアント に120%向き合い、本気でプッシュすることができます。
「未来を変えたい!」
「もっと自分らしい毎日を過ごしたい」
「うまくいっているのに、なぜかもやもやする…」
そんな方はぜひ、最後まで読んでいただけるとうれしいです!
過去を振り返ってみて
強く感じるのは、どの場面でも
どうすれば前に進めるかを考える
諦めないこと(諦めさせない)
自分で道を切り開くこと
を、ずっとやってきているということです。
なかでも特徴的なのは、チームと協力して同じ目標に向かい進んでいくことが大好きで
「相手のらしさを活かし、共に成長していく」というスタンスを、ずっと大事にしています。
何気ない選択も、実は自分の信念が影響していたんだなと改めて気づくことができました。
自分史を書いてみるの、すごくおすすめです!
幼少期 〜自由で活発な子ども時代〜
わたしは、1987年6月4日
三重県四日市市に生まれました。
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三重県は自然豊かな田舎なのですが、四日市は三重県の中では栄えていてとても暮らしやすい場所でした。
生活に困る不便さはもちろんなく、山にも海にも30分あればいけるような場所です。
そして、人が温かくわりと個性的な人が多いのも特徴かなと思います。
(もしかしたら、個性的なのはわたしのまわりだけかもしれませんが…)
家族構成は、父が会社員、母は専業主婦で、3歳年上の姉との4人暮らしでした。
私の両親は放任主義で、わりと自由にのびのびと育ててもらいました。
それが私にとっては、自立心や行動力を育むものとなったと感じています。
ただ、両親にはそういった意図はなく、恐らく余裕がなかったのだと思います。
母は埼玉、父は熊本出身で、頼れる人がそばにいない状況であってこと。
特に母は、常にワンオペで相当大変だったのではないかと思います。
父は専門職であった為、月から土まで仕事をしていて、朝も早く夜も遅い。
やさしい人柄ではあったものの、やはり九州男児なので家のことはまったくしない人でした。
今、自分も母になり実感しますが、一人ですべてのことをしなければいけないとなれば、それはそれは大変です。
少々のことは目をつぶり、放ったらかしておくしかないのです。笑
ひとつエピソードとして、幼稚園に通う姉を迎えに行く際のこと。
母は、1歳の寝ているわたしを置いて姉を迎えに行ったのです。
当時、母は車の運転をしない人だったので自転車だったので往復で30分はかかります。
そして、母が帰宅した際にご近所さんから
「すごい泣き声がしてるけど、大丈夫??」
と言われ慌てて自宅に入ると、ベビーベットに頭を打ち付けてくっきりと跡がつき、大泣きのわたしがいたそうです…
めちゃくちゃ怖い話ですね。笑
ちなみに、今なら笑えるのですが
わたしがその話をきいたのが、ちょうど思春期で自分の存在価値に悩む時期だったこともあり
「頭に柵の跡がくっきりついてて〜」と大笑いしながら母にその話をされた際、「自分って大事にされてないんだな…」とぼんやり感じたのです。
こういった何気ないことが、実は大きなことで、自分のマインドの偏りを形成していきます。
おまけに、わたしが「赤ちゃんのときはどんな子だった?」と聞いた際には
「赤ちゃんのときは、めちゃくちゃかわいかった!声かけられたりもしたし。お目々くりくりで…」
と言う母を見て
「今はかわいくないってこと?」と
思わず聞いてしまったわたしに対し、笑ってごまかす母。
これにより
「わたしってかわいくないんだ!!!」
の呪いが完成です。
この呪いは30歳まで続きます。
めちゃくちゃ怖いですよ。本当に。
話は戻りますが、わたしは幼い頃から好奇心旺盛で活発。
9ヶ月で歩き始めたというパワフルさで、自分でどんどん動き回るタイプの子でした。
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当時、集合住宅に住んでおり、近くの大きな公園で年上の子どもたちと遊ぶことが日常でした。
木登りをしたり、2階から飛び降りたりと、男の子顔負けの大胆な遊びをしたり、走ることや球技がとても得意でした。
友達と一緒に何かをすることが大好きで、その頃からすでに人を巻き込み、集団での活動を楽しむ性質があったのだと思います。
期間限定の保育園
わたしが3歳になる年に、姉が幼稚園へ入園しました。
当時、団地には同じ年代の子どもがたくさんいたのですが
姉が入園のタイミングで他の子どもたちも保育園や幼稚園にいったのか
公園には誰もいなくなり、わたしと母のみでぽつんと遊んでいたそうです。(母談)
母は、「これはまずい!」と思い、仕事をしていないのに
わたしを保育園に入園させます。
正直、保育園の記憶はほぼないのですが
ひとつだけ明確に覚えている出来事があります。
それは、クラスで「7匹の子やぎ」の劇をやることになった際のことです。
私は「ちびやぎちゃん」の役を演じたい!と、1番人気だった子やぎちゃんを巡ったジャンケンで役を勝ち取ります。(昔からジャンケンが強かった)
しかし、子やぎちゃんになれず大泣きしている友達を見て
「私、中やぎでいいよ」と子やぎちゃんを譲ったという出来事です。
当時3歳です。
この時からすでに、自分の核となる思い
「諦めさせない」「自分のやりたいことに真っすぐ進んでほしい」という信念が芽生えていたのだと思います。
写真もあった!
幼稚園の時期:リーダーシップの芽生え
そして、私は翌年に幼稚園に転園しました。
最初は環境に慣れることができず、人見知りが激しくて大泣きしていました。親にしがみついて、幼稚園に入るのを嫌がっていたそうです。
母も、「転園させずに保育園のがよかったのかも…」と悩んだそうですが、1ヶ月も経つと、担任の先生からこう言われたそうです。
「香ちゃんはいつも遊びの中心にいますよ!朝は、みんな香ちゃんが来るまで待ってる!と言ってますよ〜」と。
そう、気づけばクラスの中心になっていたのです。
積極的に友達に声をかけ、遊びの提案をすることが多くなり、「あっちでこれをしようよ」「次はこっちで遊ぼうよ」と、遊びを通じてみんなをひとつにまとめることを自然としてしまっていたのです。
特に、おままごとや砂場での遊びでは、役割を分担して「みんなで何かを作り上げる」という行為が大好きでした。
その頃から、自分が中心となって、何かを進めることに楽しみを見出していたのだと思います。
このリーダーシップの芽生えは、自然と私の中で根付き、後々、学校行事やクラスでの活動、そして文化祭などでのリーダーシップにつながっていきました。
特に、幼稚園時代に「みんなでやる方が楽しい」と感じた経験が、私の根本的な価値観として強く影響しています。
個人で成し遂げることも素晴らしいけれど、仲間と力を合わせて一つの目標に向かって進んでいく過程には、また別の喜びがあると気づかされたのは、この幼稚園時代からの経験です。
小学校時代 〜リーダーシップと正義感の目覚め〜
小学校に入ると、私はますます活発に、友達との関わりを楽しむようになりました。いつもクラスの中心にいて、友達を集めて遊びを企画するのが大好きでした。
わたしはみんなと仲が良かったのですが、なんとなくぽつん…としている子や、家庭環境に問題がある友達がいると、放っておけずに話しかけにいく、ということをしていました。
当時はまだ珍しかったシングルマザーの家庭や、
お父さんが常に自宅にいて怒鳴り声が聞こえてくるようなおうち
4時が門限で、その時間に帰らないと晩御飯抜きになる子など…
いろんな家庭を見てきました。
そんな子たちと仲良くなり遊んでいました。
もちろん、こういう家だから…など相談させることはなかったものの
なんとなく影を感じ取り「元気になってほしい!」というような気持ちがあったのだと思います。
これもまた、親になって思うのですが
家庭環境は超大事!!
当たり前のようですが、思っているより大事です。
身だしなみ、表情、声…そういったものにあらわれます。
そんな経験もあってか、わたしは中学校に上がる頃には
その子の顔や話し方で、家族の仲が良いかどうかがわかるようになっていました。
非言語で感じ取れるのはコーチ、セラピストとしての強みでもありますね!
転校-本音を言わなかったことを本気で後悔する-
そして、わたしが4年生の時に両親がマイホームを購入し転校することになりました。
ご近所さんでマイホームブームが起き、まわりからの「家賃払うのもったいないよ!」の無責任アドバイスにより、賃貸から戸建てに引っ越すことになるのです。
この時に、姉は断固として「引っ越したくない!」と言い張っていました。
わたしは困る母を見て、自分の意見を言えなくなります。
さらに、ご近所で"憧れのやさしくてかわいいお姉さん"である舞ちゃん。
舞ちゃんとは家族ぐるみで仲良くしていたのですが、母いわく「舞ちゃんは転校嫌がらなかったんだって」と母に聞かされるのです。
ここでわたしの中では「嫌と言ってはいけない…」という感情が勝ってしまい泣く泣く転校することになるのです。
(姉は中学校にあがるタイミングで、校区的に転校にはならなかった)
転校当初、ストレスも多く新しい環境に馴染むまでは憂鬱で隠れて泣いていました。
「なんでわたしばっかり…」という気持ちも常にありました。
しかし、1ヶ月も経つとすっかり周囲と打ち解け、再び楽しい学校生活が送れるようになりました。
クラスの中心的な存在として、男女問わずみんなと仲が良く休み時間は大人数でサッカーをしたりドッチボールをしたり、友達を巻き込んで遊んでいました。
しかし、5年生になった際に事件が起こります。
担任の先生がかなり独特で「授業をしない」「すべて班での連帯責任」という謎のルールのもと毎日の学校生活がスタートします。
どうゆうことか?というと
・黒板に暗号が書かれる
・暗号を解く
・それを実行し先生に見せる
・課題は一人だすれば良く、みんな丸写しでOK
・ミスると全員で運動場を走らされる
・給食も班の全員が食べるまで遊びにいけない
・残すなんて言語道断!誰かの残飯も班全員で食べる…
もう今これを書いてるだけで気持ち悪くなってきますが…
これで1年過ごしました。
例えばですが
✓テ折見
と板書されています。
これは、「テストを折って見せる」の略です。
おっきくて、お世辞にもキレイにしているわけではないおじさん先生ですが
「キレイに折る」とかに異常にこだわりがあって。
少しでもずれていたらNGなのです。
NGというのは、げんこつされてやり直しです。
他の内容であれば、「班全員で運動場走ってこい!」です。
書いてて改めて思いますが、義務教育でこれ大丈夫なんでしょうか…(白目)
さらには、給食です。
もちろん残すのが良くないのは百も承知。
しかしですね、同じ班の誰かが食べ切れない食べ残しを
班のみんなで食べなければならないというルールがあります。
とびきり小柄の男の子がいて、だいだい毎日残します。
配膳の際に気をつけていても、残すんですね。
つまり、毎日人の残飯を食べる儀式があるわけです。
このときもちろん、女とか男とか関係なくみんなで食べます。
マジで怖くないですか?
1学期の保護者会でどなたかが指摘してくれたそうですが、「そんなことしてません」の一点張り。変わることはなかったです。
ただ、クラスは本当に良いメンバーで仲良く楽しく過ごしていました。
どういった経緯があったかは忘れてしまったのですが
当時、不登校になって学校に来なくなってしまったクラスメイトを
毎朝迎えに行くということもしていました。
やっぱり、そこが気になってしまう。
みんなで仲良くしたい、みんな幸せであってほしい、という思いが強かったですね。
そして、6年生になります。
先生ともめちゃくちゃ仲が良く、クラスの中心としてたのしい毎日を送っていました。
当時、ギャルズ!という漫画が流行っていて、もれなく影響を受け
担任の中村先生を「中セン!」と呼んだり(でも本当に先生からは好かれていた笑)すんごい厚底のブーツを履いたりしていました。
そして、どのタイミングだったかは忘れましたが
思春期女子特有のいじめが始まります。
グループ内で順番に誰かが除け者にされるあれです。
実は幼稚園のときから、いつも思っていることがありました。
「なぜ、みんなと仲良くできないのか」
〇〇ちゃんはだめ!
と言ってる子の気持ちがまったく理解できないのです。
「みんなで遊んだほうがたのしいじゃん!」
常に思っていました。
これは、正義感うんぬんの前に、わたしの特性なのだと感じています。
みんなでやることが、とにかくたのしくてドーパミンが出るんですね。
こういったこと
止められても、怒られてもやってしまうこと
これをコーチングでは「want to」と言います。
これは、根源の欲求で食べることや寝ることと同じくらい重要なことで
尚且つ人よりもうまく早くできてしまうようなことです。
もちろん100人いたら100通り、人それぞれ違います。
これって使い方が重要で、うまくつかえば最強の武器になるし
間違えればただのポンコツになったりします。
want toは自分ではなかなか気づけないので、昔から自分のことをよく知っている友人や家族に聞いてみるのもいいですし、コーチと1時間話せば、しっかりと見えてきますよ!
話しは戻りますが
わたしには、仲良かった子を急にはぶくとか正直訳わからないので、自分にそれが回ってきたときに「ここで止めておこう」とか思ってしまったわけです。
わたしとしゃべると、その子が次の標的になっちゃったりするもんだから
それも避けたりしていて。
その結果、私はクラス全員から無視されるようになります。
この時に、もともと仲良かった隣のクラスのAちゃんと一緒にいたのですが
わたしのクラスのメンバーがAちゃんを誘い、一緒にイタ電をかけてきて「ブス!」とか言われたこともありました。
(わたしはかわいくない!!の呪いが深まる瞬間…)
てか、女子ってマジで怖いですね。
そこまでするか?!ということたくさんありましたね。
もう忘れちゃったけど。
でも、本当に苦しくて、辛い経験だったのですが、けっきょくはそんなもの続くわけもなく。
わたしサイドに来てくれる友達が増えて元通りになりました。
どんなときでも、曲げない、屈しない、そんな強さはずっとあるように思いますね。自分の信念を曲げることなく、貫き通す、ここはブレないです。
中学校時代 〜仲間との絆とリーダーシップを育んだ3年間〜
中学生時代は、私にとって様々な経験を通じて人間関係やリーダーシップを学び、絆を深めた重要な時期でした。
私は当時、陸上部に所属していましたが、正直に言って部活動自体はあまり楽しくありませんでした。
練習もそれほど好きではなかったのですが、同い年の部員は10人ほどいたのですが、とても仲が良くみんなで過ごす時間が楽しかったのです。
当時、土曜日は午前中のみ授業があり、午後は部活というスケジュールでした。
私が提案した「みんなで一緒にお弁当を食べよう!」というアイデアがきっかけで、毎週土曜日のお昼は部員全員で集まってお弁当を食べるのが恒例となりました。
普段は教室で決まった場所でお昼を食べるという決まりがあったのですが、この時間だけは特別で、みんなで集まってワイワイしながら食べるのがすごく楽しかったのを覚えています。
クラスの友達からも「陸上部って本当に仲良いよね」とよく言われていました。
2年生の時は、クラスの女の子4人と特に仲良くなり、色んなところへ一緒に遊びに行くようになりました。
当時、私たちはカラオケにハマっていて、休みの日にはいつもみんなでカラオケに行っていました。
特に印象に残っているのは、台風が近づいていて暴風警報が出たために学校が早帰りになった日。
学校が終わった後、みんなで目配せをし合って、そのままカラオケに行くことに決めた瞬間です。
一方で、クラスの男子は学年の問題児を寄せ集めたようなメンバーで
常になにかしら問題が起きていたように思います。
担任の先生も来なくなってしまうほどでした。
当時、主犯格の男の子は常に誰かを批判しているような人でした。
大声で悪口をずっと言っている。
なぜこの人に賛同して一緒になって悪口を言う人がいるのか
不思議で仕方ありませんでした。
本当に苦痛で、ストレスで、突っかかったところ
もれなく標的にされました。
でも、絶対に自分は間違っていないしこんな奴に負けてたまるかという
反骨心がやはり強かったですね。笑
3年生のクラスはとても穏やかで、トラブルがほとんどなく、本当に平和な1年を過ごしました。
みんなが優しく協力的で、クラスの雰囲気も良かったため、学級委員としての役割も楽しく、充実感がありました。
2年生・3年生では学級委員をしていたのですが、3年生の文化祭では縦割りのグループをまとめる「群リーダー」を務めました。
1年から3年生まで、大勢の人をまとめる責任というよりは、ただそれが楽しかった。どうやったらみんなが楽しみながら協力できるかを真剣に考え実行していました。
また、他にも様々な場面で「大勢の前で話す」ということを
繰り返しやっていました。
もともと話すのが得意であったこと、大勢の前で話すことに抵抗もなかったため緊張することなく、「話すのが上手」と言われることも多かったです。
中学校時代は、仲間と過ごす時間を通じて、人間関係の大切さや自分のリーダーシップの発揮方法を学んだ重要な期間でした。
仲間との絆や、どんな困難な状況でもチームとして一緒に乗り越えることができるという経験は、その後の私の人生においても大きな影響を与えています。
高校時代 〜フリーペーパー活動で人生が動き出す〜
高校は進学校だったものの、私服がOKで先輩も髪が赤だったり緑だったり
なんとなくゆるめの学校でした。(校則的にはもちろんNG)
そして、ここでも他のクラスでは「上履きが隠される」とか「あの子が調子乗っている」とか、そういったことが多く本当にうんざりしていました。
仲の良い友だちもできて、もちろんたのしいこともあったけど
正直「高校選び間違えた!」と思っていたし、なんとなくもやもやと過ごしていました。
そして3年生の時、私は大きな転機を迎えます。
他校の1つ年上の先輩が発行していた「高校生による高校生のためのフリーペーパー」を引き継ぐことになったのです。
当時、私はPCも持っておらず、使い方も分からない。
そもそも、そのフリーペーパーがどうやって作られているのかも知らない。
だけど、こんな素晴らしいものを廃刊させてはダメだ!
その一心でした。
当時、隣の席の男の子は中学校から一緒で、PCに詳しいと有名でした。
そこで、彼に協力をお願いし編集部として活動していくことを決断しました。
フリーペーパーのテーマは、私たち高校生が自らの視点で取材し、発信するものでした。
例えば路上ライブやバンド活動をしている高校生へのインタビューや、プロや専門学校生も参加する調理コンテストに優勝した生徒へのインタビュー、ストリートスナップなど多岐にわたる内容を取り上げました。
企画を考えることがとにかく楽しく、次々に新しいアイデアが浮かんできました。また、インタビューも得意で、ボイスレコーダーで録音していましたが、それを聞かなくても文字起こしができるくらい細かいニュアンスまで記憶していました。
わたしは、人のストーリーを聞くことが大好きで
その方の背景や想いにとにかく惹かれてしまうのです。
フリーペーパーの活動を通じて、私は自分自身の存在意義を感じ、仲間と共に何かを作り上げることの素晴らしさを実感しました。
この時期、私は本当に「生きていて良かった」と思い、反抗期だったにもかかわらず、親に対して「産んでくれてありがとう」と感謝の気持ちを伝えるほどでした。
当初は3人で始めたフリーペーパーでしたが、「一緒にやりたい!」という声が次第に増え、最終的には7人のメンバーで活動するまでになりました。
私は仲間を集めるのが得意で、この時から自分のリーダーシップや人を巻き込む力を発揮していたのだと思います。
チームの目標は「フルカラーのフリーペーパーを作ること」で、最後の2冊はその目標を達成し、フルカラーで発行することができました。
地元で最も有名なフリーペーパーの代表からも「うちが全部出資するから一緒にやらないか?」と声をかけられたことがありましたが、自分の信念にそぐわないと感じ、即答で断ってしまいました。
フリーペーパー活動の成功と共に、私は自分の力で何かを作り上げることの楽しさを学びました。そして、この経験から「自分が本気でやりたいと思えば、必ず実現できる」という確信を得ることができました。
そして高3の秋、私は進路に迷っていました。
進学校に通っていたものの、大学に行く選択肢はありませんでした。
姉が大学生活を楽しんでいない様子を見ていたことや、大学進学には奨学金を借りなければならないという経済的な現実があったからです。
正直、お金を借りてまで行きたいと思えるほど、大学に魅力を感じていませんでした。
進路の選択肢として考えていたのは、ファッションの専門学校、調理師の専門学校、そしてフリーペーパーの経験を活かしてデザイン系の学校に行くことでした。私の中で、どれも魅力的な道でありながら、どの方向に進むべきか決断できずに悩んでいました。
そんな中、フリーペーパーの活動を通じて知り合ったカフェに強く憧れていました。協賛をいただいていたそのカフェは、温かく居心地の良い空間で、私もこんな場所をいつか作りたいという夢を抱いていました。
子どもの頃から料理が好きで、得意だったこともあり、自分のカフェを開くという夢は明確でした。料理を通じて人をもてなし、自分の理想の空間を作りたいという思いは強かったのです。
そこで、地元から通える調理師専門学校に見学に行くことにしました。
しかし、見学をしている途中で「なんか違う…」という感覚が湧き上がり、この学校に行くことは私の道ではないと感じました。
もう秋になっていて、進路を決めるには時間がない状況でしたが、私は元々楽観的な性格です。
「せっかく名古屋に来たし!」と気分転換も兼ねて、ずっと大好きでよく利用していた古着屋に寄ることにしました。
そこで目に飛び込んできたのが「正社員募集」の張り紙でした。
その瞬間、私は直感的に「ここで働こう!」そう決めました。
お金を稼いでからでも料理の勉強はできる、と自分に言い聞かせましたし、正直、進学するよりも社会に出て働くことの方が成長できるのではないかとも感じていました。
進学が必ずしも唯一の道ではない、という自分なりの結論に達していたのです。
そして、面接を受け、無事に合格し、憧れの古着屋で働くことが決まりました。
私が好きだった店舗を含め、系列の3店舗のどこかで働くことになり、期待に胸を膨らませていました。
同期は10人いました。募集要項には「採用3名」と書いてあったので、少し驚きましたが、逆に「ここで1番になろう。1年で店長になろう!」と決意しました。
しかし、入社してすぐにこの会社が「ブラック企業」だという現実に直面しました。
店舗に立てるのは週に2回程度で、残りの時間はほとんど倉庫作業でした。
仕入れという名のもとに、膨大な量の古着の仕分けをするのが主な業務でした。
倉庫は広大で、何トンもの古着が山のように積み上がっていて、それを全て仕分けるまで帰れないのです。
倉庫では私たち以外にパートさんも何十人と働いていて、常にピリピリした緊張感が漂っていました。しかも、社長が定期的に現れて怒鳴り散らすため、その度に現場は混乱し、恐怖に包まれました。
夏は倉庫内が蒸し風呂のように暑く、1〜2ヶ月でほとんどの新人が辞めていく、と聞いていました。
にもかかわらず、私は辞めるつもりが全くありませんでした。
なぜ続けようと思ったのか、自分でも言語化できませんが、店舗での仕事が楽しかったのは確かです。
自分でコーディネートを組んでディスプレイを考えたり、新しい商品を並べたりするのが、とてもやりがいがありました。
同期の中でも、私は特にグループに分かれることなく、全員と仲良くしていました。自然と、同期から個別に相談を受けることも増えましたが、その相談内容はほとんどが「辞めたい」というものでした。
いろいろと話しましたが、半数ほどの同期はその後退職していきました。
振り返ってみると、この時期は自分の「粘り強さ」と「他者と良好な関係を築く力」が試されていたように感じます。
決して楽な環境ではありませんでしたが、それでも自分が楽しめる部分を見つけ、そこに全力で取り組むことができたのは、後々の人生でも大きな強みとなりました。
入社して半年後、私は店長に昇進しました。
なぜか社長に気に入られていて、さまざまな決定権を持たされていました。店舗のリニューアルに関しては、私が企画書を作成し、それが承認されて実行に移されました。自分が考えたアイデアが形になっていくこと、そしてそれを迅速に実現できる環境があったことが、何よりも楽しかったです。
雑誌やネットで話題になっていたブランドとの初めての委託契約を獲得したり、ファッション雑誌の取材を受けたりと、成長している実感と充実感がありました。
さらに、私は自分たちのブランドを立ち上げ、それが店舗で人気のアイテムに成長しました。やりたいことを次々と実現していけるそのスピード感が、私を支え、エネルギーを与えてくれました。
この時期、店長として任されるようになってからの経験は本当に多岐にわたり、私自身も成長していく感覚がありました。
特に大きな決定権を持たされていたことは、私にとって非常に貴重な経験でした。例えば、店舗のリニューアルについては、単なるデザイン変更ではなく、全体のコンセプトから棚の配置や商品のレイアウトに至るまで、細部にこだわって提案しました。
同期の中でも、特に仲が良かったゆいちゃんとの関係は、仕事においてもプライベートにおいても重要なものでした。
彼女とは仕事の悩みやプライベートなことも共有し、いろんな場所に一緒に行きました。彼氏に嫉妬されるくらい仲が良かったので、まさに仕事上のパートナーのような存在でした。
彼女と一緒に仕事をすることで、信頼関係が築け、店舗をさらに良い方向に持っていけたと思います。
一方で、体調を崩したことは、私の生活がどれだけハードだったかを物語っています。仕事の合間に食べるものはコンビニ食がメインで、栄養バランスも考えず、ただ空腹を満たすだけの毎日。
体のむくみやだるさは徐々にひどくなり、常にイライラしていました。
特に仕入れの日は、長時間の重労働が頭痛や偏頭痛を引き起こし、毎回呼吸もままならないほどの苦痛を感じながら仕事をこなしていました。
この時期は、自分が限界を超えて働いていたことに気づきつつも、止まることができない状態でした。
そして、入社して1年半が経った頃、突然社長から「仕事ができすぎるからクビ」と告げられました。
この言葉は衝撃的でしたが、私のアパレル業界でのキャリアは、ここで幕を閉じることになりました。
(すぐに、やっぱり戻ってきてほしいといわれるというエピソードもありますが割愛。笑)
夢のカフェオープンに向けて動き出す!
スターバックスに入社したのは、私が将来自分のカフェを開くという夢を実現させるためでした。
アパレル業界を経験していた私は、その後しばらくゆっくりと過ごしながら、自分がカフェをやりたいという思いを再確認しました。
しかし、もし今すぐ誰かが「資金は全部出すからカフェをやりなさい」と言われても、正直何もできないと感じていたのです。
そこで、当時どんどんと事業拡大していたスタバでカフェ運営や接客を学ぼうと決めました。当初は1年くらい働いて辞めるつもりでしたが、気づけばもっと深く関わることになりました。
スターバックスは意外にも、最初は人間関係が良くなく、ギスギスした雰囲気でした。陰口が多く、職場の雰囲気は良いとは言えなかったのです。
しかし、私は常に改革の精神を持っていて、何とかしたいという気持ちが強かったのです。お店の問題点やボトルネックを見つけ、それを解消していくことで、次第に人間関係も改善されていきました。
みんなでBBQをしたり、遊びに行ったりするようになり、職場全体の仲がとても良くなったのです。
仕事面でも、だんだんと私に任されることが増えていきました。特に育成に力を入れるようになり、これは非常に楽しかったです。
新人のパートさんや学生アルバイトが、ただ仕事を覚えるのではなく、いかにして自分の仕事に熱量を持って取り組めるかを設計していくことが重要でした。
そのためには、ただ「こうだからこうして」と指示するのではなく、ストーリーを語ることで彼らの心に火をつけました。
「お客様がこのサービスを受けたら、どんな気持ちになるか」「どんな1日を過ごせるか」といったことを考えさせるようにしたのです。
個々の能力や自己評価を踏まえて、話し方や伝え方を変えることにも意識を向けました。それぞれのメンバーに合わせてアプローチを変えることができたのは、コミュニケーションが得意な私にとって非常に楽しく、やりがいを感じました。
この時期から、イベント企画にも積極的に取り組み始めました。
クリスマスには、施設で過ごす子供たちに絵本をプレゼントするイベントを企画したり、店舗にアーティストを呼んでライブを開催したりしました。
また、ドリンクのカスタマイズをリクエストしてもらい、それをお客様にテイスティングしてもらうイベントも実施しました。
こういった取り組みのおかげで、地域に根付いた店舗になり、常連のお客様も増えていきました。
店舗運営を任されるようになってからは、私の「やりたいこと」が存分に発揮されていきました。
私は、スムーズに物事を進めること、チーム全体を同じ方向に向けること、整えることが得意で、それが仕事に活かされていたのです。
私が出勤している日は、店内やディスプレイ棚、バックルームが整理されていて常にキレイでした。
店長からは「香さんがいる日はすぐわかる笑」と言われていました。
また、ピークタイムにはボトルネックを見つけてはそこに入り、オペレーションをスムーズにしていました。
メンバーからは「困って振り向いたら、いつも香さんがいる」と言ってもらっていました。
スタバは、レジ・バー(ドリンク作成)・キャッシャー(ドライブスルー担当)などポジションがあるのですが、わたしが勝手にしていたボトルネックを解消するポジションが、わたしが退職した後、公式にそこのポジションが設けられたとのことでした。笑
また、ビバレッジチームとして、各プロモーションごとにどのような戦略を立てるか、誰にどの役割を任せるかを考えることも楽しみの一つでした。
結果的に、様々なプロモーションでエリアでNo.1という成績を獲得しました。この成功は、チーム全体の努力の賜物であり、何よりも当時の店長が掲げた目標をどうしたら達成できるのか、何を求められているのか、これが手にとるように理解できたことも大きな要因でした。
「ここを目指してる!」それさえ明確になっていれば、その方法はいくらでも浮かんできますし、それを考えること自体に非常にたのしさを感じていました。
ちなみに、この時期、私はダブルワークでバーテンダーもしていました。
ここでの経験も非常に貴重でした。
40-50代の主に会社経営や役員の方が顧客だった為、社会勉強をさせてもらいました。
人生の転機
高校を卒業してから私は名古屋で仕事をしていた為、地元の友人たちと少し疎遠になってしまいました。
しかし、三重に戻ってから友人に誘われて四日市のイベントに行ったことをきっかけに、三重の面白さに気づきます。
四日市なんておもしろくない、と思っていたのですがそんなことない。
そう思うことができたのです。
そして、友人に連れて行ってもらったBarで、「誰かDJをやりたい人はいないか?」という話が出た時、私は思わず「私、DJやりたいです!」と手をあげました。
これが、私の人生を再び大きく動かすきっかけとなります。
そこで開催されていたFUJIROCK好きのイベント
「HAGIROCK」にレギュラー出演することになりました。
当時HAGIROCKは、集客0のイベントでしたが、わたしがレギュラーDJになってからは、ど平日の開催にも関わらず毎回満員御礼のイベントとなりました!
さらに自分のイベント「Trifle!」を仲間と共に企画するようになりました。
「Trifle!」は、挑戦と全力を意味するイベントで、毎回100人の集客をし満員の大成功を収めました。
最初は、地元のアーティストで構成していましたが
次第にゲストを呼んでの開催に切り替えていきました。
私たちが呼んだアーティストは今や大人気の存在となり、FUJIROCKに出演もされています。
この期間を経て、わたしはサロンをオープンします。
その際に、「なにかを始めるならば、なにかを手放さなけらばいけない」
そういった思い込みにより、惜しまれつつもイベンターを卒業しました。
さて、少し話しは戻りますが、わたしがなぜ美容のプロ
エステティシャンになろうと思ったのか?
これは、ある人との出会いがきっかけとなります。
先程のようなDJイベントを主宰したり、野外フェスのスタッフもしていました。
その繋がりで、「ラジオ局の打ち上げがあるから」と誘われ参加することになったのです。
当日会場に到着し、先にお手洗いを済ませようと扉を開けるととっても美しい女性が立っていました!
背も高く、スラッとしていて
「アナウンサー?」と心の中で思ったのですが…
「こんばんはー」と声をかけてくれた彼女の声は
なんとビックリ
ガラガラで酒やけしていたのです(笑)
絶対アナウンサーじゃない…!と思うと共に
「この人は何をしている人なんだろう?」と興味がわきました。
後日、彼女はエステティシャンをしているとわかったのです。
そして
「エステティシャンってめちゃくちゃいい仕事だよ!」
「自分の肌とは、一生付き合っていくから絶対キレイなほうがいいよね♪」と話してくれました。
目からウロコでした。
そうか…たしかに。
一生付き合っていく自分のお肌をまったく気にしてなかった。
というよりも、本当は気になっている。
毛穴も、ニキビも。
でもどうしていいかわかず、あきらめていたんだ。
本当は、もっと肌も白くなりたいし、キレイになりたい!!
当時24歳だったわたしよりも
30歳だった彼女の方があきらかに肌がキレイだったのです。
おそらく普通は
「エステに通ってキレイにしてもらう」
という選択をするのだろうと思うのですが
わたしの場合は
「その仕事してみたい!!」
だったのです。
これがエステティシャンのスタートでした。
働く前に、
「1度エステを受けてみて」ということで
サロンへ行き、実際にエステを体験することに。
その日のことは、今でも忘れられません。
たった60分で
まったく別人になったのです。
お肌は白くもちもち
毛穴は目立たなくなって
メイクがキレイに仕上がっている…
「なにコレ!????」
衝撃と感激で
絶対にここで働く!と決めた瞬間でした。
そして、最初は
「複業としてちょこっとできたらいいな」
という程度でしたが
3ヶ月後には
「絶対に自分でお店をする!!」
と決めていました。
そして、エステティシャンをスタートして4ヶ月後に
あるキャンペーンが始まり
そこで、エリアNo.1を最速で獲得します。
その後も、あらゆるキャンペーンで常に上位成績を残していきました。
「なぜそんなに結果が出るのか?」
よく聞かれたのですが
わたしは「特別なことはしてません」と答えていました。
しかし
今ならわかるのですが、他の方との圧倒的な差は
・お客様に徹底的にヒアリングすること
・お客様の期待以上の肌変化を出すこと
ここにありました。
そして、最大の違いは
「このエステで、人生が変わる」と本気で思っていたこと。
この想いが、最強の武器でした!
そして、3年間サロンに勤めた後に独立します。
そこからの10年は、順風満帆…とは言えずとても大変な日々でした。
ですが、3年目に右腕左腕の人財が見つかり
そこから大きく変わっていきます。
顧客満足度と共に売上も上がり
チーム一丸となり、同じ目標に向かい進んでいくことができました。
毎日がたのしく、最高のチームで、最高の仕事ができている!
という実感がありました。
しかしその後、2人目を授かります。
有り難いことに、スタッフもお客様もどんどん増えて
守るべきもの、やらなきゃいけないことの比重が大きくなっていきました。
次第に「〜だから、できない」「〜しなきゃいけない」という思いに縛られるようになっていきます。
今振り返れば、やらなきゃいけないことに縛られて
とても苦しかったんだと思います。
それでも、必死になって頑張っていました。
成果もでていました。
しかし去年、2023年
スタッフが同じタイミングで妊娠、産休に入ります。
:
このタイミングで、改めて自分と向き合い
「本当はなにがやりたいのか?」ということを考えました。
「もぅエステティシャンを辞めよう」
「サロンを閉めて他のことをしよう」
こう考えた時期もありました。
しかし、コーチングと出会い
「わたしは、この仕事が大好きで、エステティシャンという仕事に誇りを持っている」ということに気づきました。
エステティシャンとして、日本一を目指していく!
そう決断したら、そのままサロンを続けるという選択肢はありませんでした。
10年という節目を目前に、これまでの型にはまったサロンを手放し
自分が圧倒的にやってしまっていて、そして価値を出してしまっていること。
「ここに集中できるサロンをつくる!」
そう決めました。
100人いたら100通り、同じ状態の人なんていません。
その個別化をしたい。
その方にあった最適な提案をしたい。
同じ方でも、日によって、季節によって
まったく状態が違うのです。
それなのに
いつもいつ来ても同じ施術をすることは
違和感でしかありません。
そして、とても重要なのは
本当にお肌に悩んでいて、困っている人に届けたいのです。
10年サロンを経営して、みなさんお肌トラブルが改善しキレイになられます。それはすごくうれしくて、自信にもなります。
ただ、
トラブルで困っていて本当に本気でどうにかしたい方
この方に対してのほうが熱量が湧いてくるんです。
絶対に変わるから、わたしに任せて!!
と気合がはいるのです。
1度、見て触れば、お肌がどういった状態で、どこに原因があるのかは
おおよそわかります。
そして、 その方の肌がどのように変化していくのかというストーリーも
見えてくるのです。
ですから、今目の前にいる
手が届く範囲の方だけでなく
本気で困っていて、どうにかしたいと思っている方
全国どこにいても、自身のサービスを届けたいと強く思っています。
そして、お肌に悩んだら、プロに頼る。
これが当たり前になってほしい、と強く思っています。
(単純に肌の話じゃないことがほとんどで、精神的・内蔵の状態・疲労による根本的な原因があるからです。)
そして、その先には
「自分らしい人生を歩むこと」
美容やコーチングは、その手段でしかないと思っています。
自分らしさを持ち続けるには、自信が必要です。
そのために、自分を磨くこと
そして、自分を深く理解すること
これは必要不可欠です。
わたしは、外見だけでなく、内面も扱うことができます。
どちらにもアプローチすることができるのです。
それは、最強の武器でもあり
わたしらしさだとも感じています。
これを使ってどこにいくのか、どこにいきたいのか。
ゴールが先でプロセスが後です。
やはりゆずれないのは
「自分の本当にやりたいことにまっすぐ進める人を増やすこと」
・女の子だから、男の子だから
・もう歳だから
・まわりがこう言うから
そういったさまざまな外圧に負けずに
自分の本音に向き合い、本当にやりたいことをやってほしい。
強くそう思っています!
だからこそ、自分に自信が必要でありそのための美容でもあります。
また、目指すべきゴールがあるからこそ
そこへまっすぐ進んでいくことができるわけです。
肌質改善専門家✕ライフコーチとして
そこに旗を立てます。
そのゴール達成の為に有効な手段を取り、前進していきます。