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【小説】『完全な造花』「長月の初め」

「もう秋ね」九月上旬の宵の口に女が言った。「そうね、暑いわ。季節の風情を不快感があっさり覆い被せてしまうくらい、残暑が酷い」
 男は間合いの外で女の視線が動くのを静観した。
「虫も鳴いているけれど、暑いけれど、でももう秋なのよ。旧暦でも秋。その証拠にほら、今吹いている風に触れてみなさい。蒸ら気が抜けた透明な風でしょう。……秋風の吹きにし日より、音羽山おとはやま、峰の梢も色づきにけり。この風。早く秋だと思っておかないと、冬になったら短い秋だったと嘆くことになる」
 女の視線の焦点が合わせられた男は静かに言った。「まだ生きていたのだな」
「ええ。驚きよ。あなたにこの世で再会し得るとは、思っていなかった」「お前は変わっていないな。背が伸びただけで」彼は女の足下から頭までを一瞥した。「面影がまるで欠けていない」
「それは良かった。様変わりするよりずっといい。……遺伝子や細胞が、壊れなかった証左になる」
「………変わり果てたのか。見えない箇所は」
「………ええ。きっと。それは元々と同じ方向かもしれないけれど。あなたと知り合った頃に、兆候として現れ始めていた方向と。けれど、度が過ぎれば歪というもの。私は、………この国の風土的気質に染まるに任せてしまった。……つまりは人為に、文明と文化の流入に何の妨げもしなかった。………例えば、申し分なく陰陽師になった。……けれど、私は陰陽師ではなければ良かった。遊戯名人になっていたかった。私の記憶が計算機で操作できて、そして、全て忘れてしまえたらいいのに。出来事の記憶も、習慣の記憶も消えて、生まれたての状態にして、違う生存様式を取りたい」
「そう言う理由は何だろう。その願望は、……俺には哀しい」
「あなたは、感情豊かになったね」
「その呼び方は、お前が拒否した呼び方だ。お前は俺を、君と呼んだ」
「懐かしい記憶ね。あの頃は、……そう、あの頃は、……そう、良かった時節。……そうね、……けれど、どちらかといえば、忘れてしまいたい。あの頃という落日が、ごく細い影を、私の所に伸ばしているから」
「どうして。一体何を、何故に、忘れたいのだ。お前にとって、その記憶はそれほど厭わしいものなのか。……お前は、素直に笑っていたように、俺は記憶している」
「………あなたは、十分変わった。声変わりを経て、背も伸びて、教養を充溢させた精神を覗かせている。単なる高度な知性の実現だけでなく、ホモ・サピエンスの社会性に相応しい、論理と倫理の合一を果たしているように見える」
「俺は論理主義を見限った。……倫理も追求できるようになった」
「……あなたがそう変わったように、私も変わった。あの頃の世界は、今の私には遠い。今の私の生存には、役に立たない。………あなたの変化はいいことね。行き過ぎた論理は内側から自壊する。そうならないように健忘症は欠かせない。無知の無知は、それは幸福な状態よ」
「……それは、…それは違うぞ、●●。………知らなければ、その幸福は運に依拠した儚いものだ。この言葉に納得できないなら、お前が考えている幸福は、形而上学的で、具体性がない」
「そうかしら。世界には、自分の無知に鈍感な人が溢れているわ。自分の認識に満足して、それを拡大せずにいられる安心感。……そんなうぶで愚かな状態が、全うな幸福を享受しやすいのよ。枠の固定された認識の中で懸命に生きること、……それが月並みでとうとい幸福をもたらす、極めて高い蓋然性でね」
「違うぞ、そうではない。形而上学から距離を取るんだ。そうすれば人と言葉を共有できる。それは自分が悲劇へ向かう表象を忘却する。表象としての世界において、悲劇的なるものを受け入れられる。それで形而上学的な人間も幸福を思い出せる。無知は不要だ。………お前が言ったんだ。無知の無知が罪を生むと。それは悲劇だ。罪人は、倫理に背いた人間だから、社会から疎外される。そうあってはならないが、しかし、悲劇的な孤独に呑まれがちだ。そうした人間は、形而上学に捕縛されるのだ」
「形而上学。それこそが人類の悲劇の基盤に在る。……私は、常々求めていた。私の形而上学を完全に破壊してくれる人間を。だから形而上学を知らない市民に関心を注いできた。そして市民的な形而上学者という、矛盾した弁証法を実現したあなたにも。……でもあなたは、結局、形而上学的な基礎から精神を切り離せていない。あなたは、私に同調できても、私を破壊できない。そして凡庸な市民でさえ、悲劇は克服できないのよ。言葉は共有できなくなるのだから」
「お前は気づいているではないか。無教養が幸福をもたらさないことを。教養のための形而上学だ。手段と目的をすり替えなければ、それに溺れはしない」
「……そうだね。でも私は幸せになりたいわけではない。離脱したいだけ。不幸、悲劇、絶望から。私は悪魔と契約した。そういう人間は、当初の願いを叶える代わりに常闇に堕ちる」
「お前が悪魔と契約した、……それが本当なのか、俺は首を捻る」
「私もね、まさかあなたと同じ罪を負うことになるとは思っていなかった。……ええ分かってる。完全に同じではない。子供のあなたにはそうするしか生きようがなかった。あなたは選んでいない。選ばされた。私は選んだ。この身一つの可愛さに、自分で選んだ。多くの人間が犠牲になることを、●●●●が選んだ。私は進んで罪を犯した。その点であなたよりは重罪人でしょうよ」
「……本当に、お前に選ぶ権利があったのかは、怪しいものだけれどな。顔も名前も定かではない、具体的な個人でもない、潜在的で将来的な不特定多数の人間を人質に取られても、潔く自分を犠牲にできる人間というのは、大して多くない。そこでお前は普通の市民だった。……それが悪いことだとは思わない。……俺はそれに、……嬉しくさえ思う」
「あなたは市民の倫理で私が間違っていると理解している」
「そんな理想的な倫理ある市民が、珍しいと言っている。大抵の人間は聖人じゃない。何かしら罪があるものだ。お前もそうだった。お前が聖人じゃなくて、人間で、………俺は安心した」
「……なるほど、……あるいは、あなたは私ほど、生々しい世界を見ていないのでしょう。……あなたが無知の無知なことに、私は愛おしさを感じた。許されない愛おしさをね。でもこれで、私たちは互いに都合よく相手を見ていられることが分かった。それでいいんじゃないかしら。私はあなたが思っているより惨いし、あなたは私が感じたいより罪深い」
「お前は命がかかっていた。俺はそうじゃない。あくまで命にとって間接的な糧だ。だから俺の罪は怠惰だ。……だが、……お前が生命に対して誠実なのはよく分かった。罪悪感深く生きているのは、他人の命に畏敬があるのは、よく分かった」
「それを否定しないでおいてあげましょう」
「……それなら、内侍水なしみずが少しは浮かばれるだろう」
「……今更そんな、子供じみることに何の意味があるの。私は、その墓石の前で命を嘲笑って生きていることを宣言できる」
「結局そういうことだろう。そう言い返すのは、……お前が生命に誠実だからだ」
「……それは誤解。あなたは私を誤解している。私はただ、事実を言っている。私は、あなたの手が綺麗な程度には、生命の重さを感じていない。内侍水なしみずがいた頃とは、……違うのよ。彼の命を特別重くも感じていない」
「……俺の手が汚れているのを知らないお前ではない。………それと比較したな。………本当なのか?」
「分かったかしら」
「お前の手は、……血生臭いのか」
 女は薄い笑みを浮かべたまま黙っていた。
「……罪悪感の源は、巨大な数に加担していることじゃない。自分の手の血生臭さだろう。お前も俺も、汚れた手を洗わず、その生臭さを忘れないようにしている。だからお前は生命に誠実なんだ。違うのか?」
「違う。あなたと一緒に汚れた手は、とっくに血で洗い流している」
「………そうする必要が、あったのだろう」
「ええ。私一人が生きるためにね。……けれど別に、私が稀な大罪人ではないことくらい分かるでしょう。一瞬で奪うか、静かに年月をかけて奪うかというだけで、自らの至福を肥やすために、何千、何万という人間の未来と幸福を少しずつ掠め取っている人間はいるでしょうよ。そして資本のことだけではない。本当は生きたい辛いだけの人に、死にたい奴は一人で死ねと吐き捨てる有象無象が、…………毎日何十人もの命を追い詰めている。迫害される必要のない人間が何十人もね。……そうね、私も私で、あなたが言うように、よくいる市民に伍したということで、あなたが言ったことが正しかったと言ってもいいのでしょうね」

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