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【小説】カラマーゾフの姪:ガチョウたち(10)

割引あり

○2020年の喫茶店。

○人物
弥生やよいけい:社会学系の大学2年生。
小芳こよし勝市かついち:情報学系の大学2年生。弥生やよいけいのサークル仲間。人間のデジタル化についての思想を話した。
曲丘かねおか珠玖たまき:ITフリーランスの女性。小芳とは初対面だったが、彼の思想を窘めた後、勝手に弟子入りされた。
彩田あやた守裕もりひろ:大学院で数学を研究する院生。弥生の従兄で、弥生のPCの不調をチェックするために、知人の曲丘かねおかを紹介したのが事の発端。小芳とは初対面。
・ナルキ:小芳の先輩の女性で、PCのティーチングアシスタントをしている大学院生。小芳を「かっちゃん」と呼ぶ。

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「かっちゃん、そろそろ時間だ」
「あ、そうだった」
「何か御用事で?」
 小芳が答えた。「……確かめて来ますよ。……人間にとって身体が必要なのか否か」
 曲丘かねおかはナルキに尋ねた。「どういうことです?」
「ちょっと研究室見学です」
「研究室?」
「……私の先輩に紹介する話になって」
 小芳が言った。「VRです」
「……なるほどね。…いいことです」
「それでは曲丘さん。また教えてください」
「一つだけ忠言してあげましょう。今日の体験は、想像を膨らませることです。想像力の限界までね。メタバースはまだ未成熟の技術ですから。どこまで行けば身体が不要になるか、空想を嘲笑われるくらいに想像することです」
「分かりました。また会いましょう」
「ええ、ご縁があればね」
 ナルキが去り際に頭を下げた。「それでは失礼します」
「どうぞお気をつけて」
 ナルキが何の消費行動もせずに退店したのを見届けてから、曲丘かねおかは財布と携帯端末を取り出した。「では、私達もそろそろ行きましょうか」
 彩田あやたが言った。「どこへ」
けいさんのニューギアを調達しに」
 曲丘は財布から紙幣を一枚、人差し指と中指で挟んで取り出した。
「折角買った茶も飲み終えないことになるので」
「いや、出るなら飲むよ」
 彩田あやたがほとんど手を付けていない自身の紅茶を呷るように飲もうとする横で、弥生も自身の手元にあった珈琲に手を伸ばした。
「恵さん、彼の連絡先を教えてもらってもいいですか」
「…彼って、小芳こよし君のですか」
「ええ。御存知なのはメールアドレスと電話番号……ですか?」
「ま、まあ両方知ってると思いますけれど……」
「SNSを使ってますか?」
「はい、そっちの方が多いですかね」
「とりあえず一通り教えてください。それくらいの権利はあるでしょう」
「……分かりました」
 弥生が小芳の連絡先について、自身の携帯端末に入っているものを一通り画面に表示させて見せた。
「………また彼と会うんですか」
「いいえ。一通りブラックリスト…ブロックしておくんです。もう会うことがないようにね」
 三人は曲丘の運転する自動車で弥生の大学の近くに行き、有料駐車場に停めて大学構内に入った。そして………表情の綻んだ曲丘に従って——大学の敷地内にある購買部に入った。
「懐かしくていいですね」
 彩田が店先でアルコール溶液による手指消毒をしながら尋ねた。「…懐かしいって、来たことあるんですか」
「………ちょっと昔に」
「…うちの先輩…じゃないですよね」
「ええ。でも………」そこで曲丘の表情は………確かに変調した。それは郷愁や感傷の類ではなく、彼女が電子機器を前にしては決してしないであろう顔、事態を前にして狼狽を抑制していることを押し隠しているような顔であったのかもしれなかった。——「……まあちょっとね。……売っているものは変わってますけどね」曲丘はタブレット製品の前を通り過ぎ、ラップトップ製品の並ぶ空間で足を止めた。「さて、恵さんのパソコンの使い方も聞いてみましょうか」
 曲丘は弥生が使う可能性のあるソフトウェアや、どの程度屋外に持ち運ぶのか、主な移動手段は何か、買い替えの頻度や大学院進学の可能性等も聞き、………弥生の生活にとって最も都合がいいと考えられる——製品を選定した。その製品の購入に弥生の合意を得ると、彼女は掌に収まる小さい補助記憶装置を一つ手渡した。「回復ドライブ用に」その他に弥生が希望して液晶画面保護フィルムを購入した。
 店を出て、駐車場へ向けて大学構内を歩きながら、弥生からの謝礼に曲丘が応えた。「私の方こそありがとうございました。大学の店でそこそこの端末を安く買うっていうの、やってみたかったんですよ」
「……そう…なんですか…?」
「ええ。何かいい買い物をした気になれますね」
「…はあ、そうなんですか」
「中古品を漁るのともまた違った趣があります」
「はあ……なるほど」
「……それはそうと、……恵さん、さっきの小芳君といた女性……」
「はい」
「彼女のお名前は何でしたっけ」
「…………あれ、………何でしたっけ。あれ、すいません。思い出せません」
「彩田さんは?」
「ごめん。分からない。何でだろう」
「私も、何故か思い出せません」
「……小芳君に聞いてみましょうか」
 曲丘は足の向く先を見たまま答えた。「いえ、結構です。…………ぁあ、あ、…すいません、…やっぱりお願いします。聞いてもらってもいいですか?」
「分かりました」
「その、……その時に、私が知りたがっているというのは伏せてお願いしてもいいですか。あくまでも私は関係なく、……恵さんが知りたいということでお願いします」
「……まあ、分かりました。たぶん大丈夫だと思います」
「すいません。よろしくお願いします」
 三人は大学を離れて家族連れや複数人集団を主な顧客に想定した飲食店に入り、遅れた昼食にした。そして感染症流行防止の倫理で、平時よりも長居することが阻まれる静かな空気の中、些か小声で弥生の新しい端末の初期設定や、曲丘の奨励する設定を行った。最後に恵の旧い端末を曲丘が受け取り、その日は解散となった。


 『カラマーゾフの姪:ガチョウたち』をお読みいただきありがとうございました。
 こちらは『願望と献花』という長編小説のごく一部で、全体はまだまだ執筆途中ですが、ここ一つだけでも文学的に価値があるだろうと判断して公開しました。
 『ガチョウたち』については文庫本として印刷し、先日文学フリマ東京38で頒布しました(初版在庫の残部についてはnoteかX(Twitter)で私にお尋ねください)。
 文庫本については国会図書館に納本させていただきました(受け取っていただけました……!)

 『願望と献花』については2020年の物語につき終幕の仕方は決まっているのですが、『カラマーゾフの姪』の終幕は枠組みしか決まっていません。2030年の物語だからです。2030年の世界を素材に、ドストエフスキーが書いた/書こうとしたアリョーシャ・カラマーゾフの物語が満たす文学的要件を踏まえながら構成されます。その文学的要件に基づいて『ガチョウたち』は構成されています。

 有料部分で見れる画像は『ガチョウたち』の人間関係と、『カラマーゾフの兄弟』の人間関係の対応を表したものです。既にSNS等で公開した情報を画像に直しただけで新規性はありませんが、よろしければご覧ください。逆にネタバレを含みます。
 『ガチョウたち』を読み直す場合はこちら。

 『願望と献花』を読まれる場合はこちら。

 ここまでありがとうございました。

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