「触れる」という比喩
なんだか物々しいけれどよく分からない台詞です。予想外なほど伸びていたこちらの記事のタイトルでした。記事の内容は物語作品の台詞集です。
記事タイトルの台詞は、記事内で最初に挙げている台詞と同じ文脈のものです。
台詞の抜き書きなので文脈が分からない台詞ですが、実は抜き書きでなく、文章が完備されていても文脈は分かりません。
『願望と献花』という物語の最終版の下書きの中の台詞ですが、主人公(彩田君)は「秋山君」なんて知りません。(ここは市民のネガティブ・ケイパビリティを試すというのが一つのテーマになります)
上の台詞が出てくるのは、発言者と彩田君、当事者の三咲すみれという三人の人物の会話の中です。発言者は当事者にしか分からないような比喩として「触れる」という言葉を使っています。
しかしながら、「手が触れた」のが「手」や「意思」というだけでは、当事者の三咲もすぐには分かりません。
(なんとなく予感はしつつも)
ちなみに「触れる」ものを整理すると次の通りです。
秋山君の手 → 手
この手(発言者の手) → 意思
なんだか実行犯のスメルジャコフと、実行を願ったとされるイワン・カラマーゾフを思い出すのは私だけでしょうか。()
逆に当事者の三咲すみれは『カラマーゾフの兄弟』を知りませんが、「人間が人間に触れるのには、全く以て道徳の限界があるのよ。」と言われて比喩を理解します。
………どんな比喩かピンときたでしょうか。こなければ作品の完成をお祈りください。
『願望と献花』はコロナ文学という側面はありますが、コロナが不要なくらいには暗澹な地盤の上に築かれている文学です。
第一章はこちら。
世界文学の殿堂に納本してきますので、どうか完成をお祈りください。
よろしくお願いいたします。