思い出のピザトースト
「隅から隅までおしゃれで緊張するね」
初めての神戸旅行で母が呟いた。手を繋いで歩いた記憶があると言うことは、きっとまだ私が小学校低学年の頃。レンガ造りの建物が並ぶ目抜き通りには深緑の街灯が立っていて、私の暮らす町とは明らかに違う雰囲気を醸し出していた。
そうか、おしゃれは緊張するものなのか。
それまで私の「おしゃれ」は可愛くてきらきらしているものだった。透き通るピンク色の消しゴムや、ラメが入ったペンケース、それからほかには、裾がフリルになったデニムのスカートのような。けれど大人の「おしゃれ」はどうやらそうではないらしい。背筋がぴしっと伸びるような、その緊張に似合う自分になりたいような気持ちなのだ。母の歩調に合わせて少し早く歩きながら、大人の感覚を垣間見る。ちょっぴりお姉さんに近づいた気がして、嬉しかった。
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その十数年後、私はひとりで神戸を訪れた。行き先は、ハーバーランド近くの新聞社。当時私は就職活動中でいろいろな会社のセミナーや説明会に出席していたのだけれど、長時間に及ぶそれには苦手な時間がついてまわった。
「それでは、お昼休憩に入ります。食事は買ってくるか、外で済ませてきてくださいね」
人事担当者の説明で、がたがたと席を立つ。徐々に騒々しくなる会場。
マスコミに限った話ではないけれど、説明会の回数を重ねるにつれて顔見知りが出来てくる。同じゼミの友達がいることもあるし、就活用の予備校の仲間がいる人もいる。お昼には何となく、グループができるのだ。
しかし私には同じゼミの友達も仲間もいなかった。他の会社で一緒に面接を受けた顔見知りのあの人は、すでに別のグループの中。
ふぅ、ひとりで食べよっか。
いつも私は、誰にも話しかけられずじまいだった。
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建物を出ると、ふっと気が緩む。海が近いことが分かる、独特の風と湿り気。そこまで潮の香りが強くないその風は、私が住む町のものと似ていた。
近くにあったショッピングモールの中に入り、入りやすそうな飲食店を探す。ひとり旅は好きだったけれど、ひとりで食べるご飯にはいつまでたっても慣れなかった。他にもひとりのひとはいる?値段はどれくらい?すぐに料理は出てくるかな?時間制限のある中、慣れない土地で食べるランチには考えなければならないことがたくさんあるのだ。
少し照明を落とした喫茶店があった。首から社員証を下げたサラリーマンがいる。入り口のボードに書かれたメニューも1000円を切っている。
ここなら大丈夫かな。少し古びたドアを開ける。
ひとりなのに「何名さまですか?」と聞かれるお決まりの質問に答えると、壁際のテーブルに案内された。お店に入る前に決めていた、ピザトーストとカフェオレを注文する。
それはすぐに運ばれてきた。バスケットに入ったピザトーストと、少し口がぽってりとしたマグカップになみなみと入れられたカフェオレ。コーヒーとは違う優しい色合いにほっとする。
そして最後に、ふわり、と渡されたのはコーヒー豆とミルの柄のひざ掛け。
「パンくずが落ちないようにお使いください」
そう言い添えたお姉さんは、エプロンの裾をひらひらと靡かせて去っていった。
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神戸と似たような風が吹く私の町にも、喫茶店はいくつかある。ピザトーストも、カフェオレもある。けれど、あのときのようにひざ掛けを差し出してくれるお店を、私はまだ知らない。
就職活動中、どこでご飯を食べたっけ。何を書こうと考えるとき、今日は何が食べたいかなと考えるとき、時折振り返ることがある。頑張ったから、と少し贅沢したことも、その土地の名物を食べたこともあるのだろうけれど、私はいつもあのピザトーストとひざ掛けを思い出す。
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「隅から隅までおしゃれで緊張するね」
ちらりと見えた、大人の、母の気持ち。今ならあの日よりもっと深く、分かち合える気がしている。
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