手を入れられなくても

「私、ちゃんと調理がしたい」

美しく盛り付けられたオードブルをじっと見つめ、友人が呟いた。ちょっぴり背伸びをしたフレンチレストランの、窓際のテーブルで。「仕事辞めるんだ」と教えてくれた彼女に「どうして?」と問いかけたときの答えだった。

憧れのホテルで調理師として働いて数年。彼女は「ギャップに耐えられなくなった」とこぼした。テーブルにことり、と置かれる華やかな一皿を作りたい。それを見てふわり、と笑うお客さんの笑顔が作りたい。その気持ちは今も変わらない、と前置きしたうえで、「使ってるの、本当はレトルトばっかりなの」と困ったように笑った。薄く薄く、向こうが透けてしまいそうなほどに繊細にカットされた野菜を「わぁ……丁寧」とフォークでそっと持ち上げるその手元から。写真は一枚も撮らないけれど、食べる前にじっとお皿を見つめるそのまなざしから。「ちゃんと作りたい」が、じわじわと滲み出ていた。


最近、仕事でもホテルの調理師さんのお話を聞く機会があった。「仕事をしているうえで大切にしていることって何ですか?」とぶつけたオーソドックスな質問に、私と同い年だという彼は丁寧に答えてくれた。

「ホテルってすごく時間と経費の効率を考えていて、ものすごい数の食事を提供するところです。だから正直、出来合いだって使うんですよ。温めて出すだけ、みたいなのも、たぶん折星さんが思っているよりたくさんあると思います」

あ、あのときの。彼女が優しく触れていた、オードブルが蘇る。

「でも僕は、だからこそめちゃくちゃお客さんのこと想像してます。これを食べてくれる人がいて、その人はどんな気持ちで今いるんだろうって。そうしたら出来合いだからって、つまらなくなることはないんですよ」

ひやりとした。気づかなかった棘が、ちくりと痛んだ。

そんな思いで作られた料理が、おいしくないわけがない。嬉しくないわけがない。


あの日、「調理がしたい」と言った彼女の言葉を聞いてから。いや、本当はもっと前からだ。私は丁寧に手作りされたものこそ、おいしいと思い込んでいた。新鮮な材料を、手をかけて調理することこそ素晴らしい、と。

けれど本当は、出来合いは悪じゃない。誰かの「楽」のために生み出された商品があって、それを運ぶ人がいて、仕上げる人がいる。きっと誰もが、食べる人のことを思い浮かべているはずだ。そしてそこには、何の妥協もない。


「今日のお昼、何食べました?」

「えっと……。パスタでした。トマトがたっぷりの」

「あ、それ僕が作ったやつです。どうでした?」

彼は、自信たっぷりに笑った。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?