誰かのため…で思うことをつらつらと
先週の木曜日の夜、ニュースを見ているとスタジオが揺れていて、思わず見つめてしまいました。
録画の映像でないことがわかるので、すぐに結婚して東京にいる上の子にLINEをして、無事を確認。
そして、次の日
たまたま休みで、朝の連続ドラマをみていて、気になるシーンが・・・
昔の教え子が訪ねてきて嬉しそうな母親をみた主人公が、その女の子に 「また来てね」というのですが、その女の子は「私は何にもできないから・・・」と返します。その応えに「助けているようで、助けられていることがある・・・何もできてなくっても、それでいいってなったら素敵じゃない」と。 (台詞は全く違うかもしれませんが、こんな感じのやりとりでした)
阪神淡路大震災の年の春、上の子の妊娠がわかりました。この年はボランティア元年とかって言われます。
「ボランティア」って難しいです。
ボランティア活動をしたことがある人なら、感じたことがあるかも知れませんが、自分が動いた事で、誰かの役になったという感覚は「やりがい」とか「達成感(これはちがうかも・・・?)」とか、自分の気持ちも大きいですです。もちろん、本当に役立つことが殆どだし、純粋に感謝の言葉をもらったりします。
けれど、ずっと続けていると、受ける人の心の負い目や甘えにもなりかねません。
反対に、
長く読み聞かせのボランティアをしていますが、研修で「読み聞かせの相手に、聞いてもらうボランティアをさせてはいけません」という記事をもらったことがあります。
良かれと思ってやっていることが、実は相手の優しさでやらせてもらっているかもしれない…
「やってもらって当たり前」もいけないし、
「してあげてる」でもないボランティア
「無償」ということもあります。
今年のオリンピックでも、沢山のボランティアの方々が陰で支えてくださりましたが色々なことが言われました。
ボランティア・・・う~ん・・・
など考えていて、思い出したのが
(2019年ノンフィクション本大賞受賞。最近2巻も出ています^^)
イギリスの公立(しかも底辺校と言われていた!!)に息子が入学したところから始まるノンフィクション。
実はタイトルは著者の息子さん「ぼく」のメモからきているとのことです。
日本人の母とイギリス人の父をもつぼくは、人種差別やLGBT、貧富の差など自分の生活の中で見聞きし、感じ、考えていて、日本とは違う学校の友だちや先生、授業の様子も等身大で書かれています。
この中の5章「誰かの靴を履いてみること」で、大雪で学校が休校になった日、ぼくがみかこさんと一緒にボランティアに行ったことが書かれているのですが(詳しくは、リンク先で試し読みができるのでお読みください♪)
暖かい飲み物をホームレスの人に手渡していると、逆に「感心だね」と年季のはいったようなキャンディをもらい、みかこさんに「これは善意だよね?」と聞くエピソードがでてきます。
ちょうどぼくは学校で「エンパシー」について学んでいました。
『エンパシー=自分とは違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力』
イギリスの中学校で「エンパシー」について学んでいることに驚きました。お国柄もあるとは思いますが、日本でも必須になった道徳では、どうなんでしょう・・・
ぼくはホームレスの人からキャンディをもらってうれしそうに母であるみかこさんに見せたそうですが、前にある記事で「大学生がボランティアに行った先で、地元の方が握ってくれたおにぎりを食べられないと断った」というのを読んだのを思い出します。
コンビニおにぎりに慣れてしまっている今、見知らぬ人がにぎったおにぎりは食べられないという今の社会事情も何となくわからなくもないのですが「エンパシー」とボランティア・・・
こたえは出ませんが、また続けて考えてみたいです。
最後まで読んでくださってありがとうございます。文章にするのに時間がかかりすぎて、定型でなく、不定期になるかと思いますが、読んでいただけると励みになります ♪