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携帯電話

 大学四年生の時に手酷い失恋をしてバイト先の居酒屋に行けなくなり、母を病気にして辞めた後、派遣に登録して携帯の販売員になった。
その頃の携帯電話は畳んだり、やけに長いアンテナが付いていたり、サイドに訳のわからない歯車があったり、数字のボタンだけを蓋で隠したり、兎に角アナログで液晶も電卓の様な薄緑で今のスマホとは似ても似つかない物だった。

 前橋やら富里やらに出張していたが、秋葉原に固定になり、最後に相模大野に行き着いた。
 就職氷河期と呼ばれる最中だったので、四年制大学を卒業予定ではあったが元より就職する気がなく、派遣の仕事で手取り30万稼いでもいたので、卒業後も何の疑問もなくその仕事を続けた。

 皆こぞって携帯電話を買う時代であり、上手く勧めれば型落ちの機種でも買ってくれたので、近隣店舗の不動在庫を掻き集め売りまくった。相模大野であってもかなりの台数を月に売り上げていた。
 お世話になった電気屋では荒利で月のランキング表が掲示されていた。携帯電話は荒利の馬鹿高い商品だったので私の名前が常に上位に記されており、電子レンジや洗濯機、オーディオやエアコン等を販売している人が苦労してランキングに載る中、やすやすと上位にランキングされてしまい肩身の狭い思いをしたのは覚えている。

 あの頃の電気屋は1階にドアがなく、商店街の八百屋のようになっており、夏暑く冬は寒さ厳しく春は花粉地獄だった。
来店する客も多種多様で、襟首をつかまれる事も一度や二度ではなかった。客も客だが店の販売員も癖の強い人ばかりで、挨拶しても数カ月見向きもされない事もざらだった。
 1階の店長(各階に店長がいた)のパシリや、携帯とは関係のないテプラのテープやナショナルのドライヤーなどを売り店舗側にゴマをすり、自分の休みの日はしっかりと自分の担当のメーカーの携帯電話を売ってもらった。電気屋は持ちつ持たれつがとても大事なのだ。
 
 そこで数年を過ごし、派遣元から声が掛かり横浜のデパートの中にある携帯会社のショップで働くこととなった。
新しい時代の始まりである。

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