スキーマという過去と向き合う 2
さて、私のスキーマと向き合うお時間。
前回までは、我が家の柱となる2人の家族アセスメント。
そして、そこに加わった母。
壮絶な嫁姑のバトルが始まり(姑優勢)、そこに私が産まれる。
初孫な上に、父はようやく家族が増えて我が子に対しての執着が強くなる。
また、責任やら父親を知らずに育ってきたことでどんな父親にらなったら良いか悩む日々。相談したくても、周りの同級生はまだ結婚していない。
ベタ甘な父親と祖母。
まあ、初孫子あるあるで何事も先回りして大騒ぎ💦
田舎なため、近所には子供は少なくどう考えても人見知りなお子様と育つ。
また、気性の激しい祖母からちょっとでも祖母の気に入らないことをすると叱責され母が責められる。
また、母1人子1人のためヤキモチもひどく母と父と私がお出かけするとなるとものすごいグズグズという文句が出る(口も悪いのでこれがほんとひどい)。
母の実家に行くとなると、もう前日から当たり散らされる。
毎日のように、険悪な雰囲気なうえに針のむしろの上での生活。
子供心に、気が抜けない日々のストレスがわかる。
だから、母方祖母宅が私の唯一の気が抜ける場所だった。
そんな祖母宅も、行きたい思いは強かったがあまりにも祖母の叱責が酷く行ってしまうと帰ってきたくなくなってしまうため…今度は逆に行きたくなくなってしまったこともある。
父は、若くして父親になったためがむしゃらに働くようになった。
(中卒のコンプレックスも重なりだいぶハングリー)
夜中になっても帰ってこないため、母は、ほぼワンオペ育児。
祖母の叱責とワンオペ育児なんて、今考えたら誰もできないと思うわ。
そして、自我がら芽生え始める頃には祖母の更年期も始まっておりイライラのピークを迎える。
怒鳴り散らし、当たられ始め些細なことでも叱責。
また、父も子供の教育なんて記憶にないので怒鳴りながらの育児。
おかげで、私は大きな音恐怖症。
風船🎈を膨らましてブーとなるおもちゃが嫌い(それを聞くと泣くため、父は面白がって何度もならす)。
私はすぐ泣く子だったので、泣いた顔を写真に撮りたいとわざと大声出されて泣かされ写真に撮られる(結構衝撃的に怒鳴られ怒られたと記憶してて、その写真を見るのが後々まで嫌だった)。
まあ、父の悪戯が過ぎるため結構なトラウマになっていたこともある。
祖母はお金に汚いので、よくよくバイトをしており誰もいない時などは曾祖母に預けられたこともある。
まあ、前回も書いたが身内はろくでなししかいないため…馴染めない。
嫌な記憶しかない。
そして、祖母が叱責する時の捨て台詞「にしゃら、言うごときかねーとデェーギリ棒持って打っただいでくれっから!」「女子童のくへせに、クソの役にもただねーんだから。」
だった。
父親からは、何度も出て行けと外に出され大泣きして「入れて〜」と騒いでいた記憶がある。
それが、今も捨てられてしまうという気持ちを強くしてるんだろうか…。
見捨てられる症候群は、今も引きずってると思う。
そして、得意技も生まれる。
いま、嫌な思いをしているのは私ではない別な人と別な自分を作り出したこと。
また、逃げ場所はなかったけど本が好きだったため本を読むことで別な人間になった気持ちになっていた。
本を読むと、その主人公になれたからだ。
だから、子供の頃は幸せな話やファンタジーしか読まなかった。
本が友達で、他に人間の友達はいらなかった。
本があれば、それでよかった。
そんな気持ちは、小学6年生まで続いた。
そんな、つまんないやつだもの学校でもいじめの標的になることも多かった。
小学3年生の時に、家のことも学校のことも嫌になり自殺を考えていた時期だった。私がそんなこと悩んでいると母にわかってしまったらただでさえ祖母からのイビリに耐えている母には辛いと思い言えないでいた。
でも、ふと人生80年。今すごく悩んでいても、大人になった頃には大した問題ではなくなってるだろうと死ぬことを止まったことがある。
あの日の自分を、褒めてやりたいと振り返って思えるようになった。
だいぶ、ませた小学3年生だったような気がする。
虐待されたわけではないけど、結構しんどいスキーマのような気がする。
見捨てられるという恐怖心は、ここからのよーな気がする。
これが、私生活に影響してるような気がする( #●´艸`)プププ∮+゚
ダメンズほいほいとダメンズメーカーな自分。