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優雅なプラクティスを

ここに来るといつも思う

優雅なプラクティスをする人たちが多い

そしてそうしたプラクティスの場所は心地よい


表現する適当な言葉がみつからない

それは空気感みたいなもので

ニューエイジ的に言うならばエネルギーの質感という感じだろうか


空気感と書いたけれど

そこにはよく言われる空気を読むという

触手を伸ばすような能動的作業はない

浮かび上がるものを判断せず

あるようにさせておく


美しい虹色の空気があるとして

その虹色の空気が部屋のどこかで立ち上り

私を包んだり、私を通過してゆくのを

そのままにしておく


あえて言うならそんな感じだろうか

日常の動作

視線や声

挨拶でかわす言葉の選択

その場所とそこに集まる人たちと

そしてそこでわかち合われる練習とそれぞれの関係


練習はパーソナルなものだけれど

それでもその時間と場所を共有することには

思う以上のインパクトがある


場所や環境やコミュニティなどによって多様だし

そのどれが良いというわけでもないだろう

ただ、NYCでは、プラクティスする場所に困るということはないから

自分が心地よいと思う場所へと

自然と、同じような何かを大切にしている人たちが集まってくる


同じような何かといっても

哲学なり思想なりといった小難しいものでなく

また明確に主張するようなものでもなく

漠然ととらえどころがないのに

私たちのアンテナがいつの間にか繊細に反応しているもの


名前と日常の断片を知るだけの

この場所で出会う人たち

遠いようで、特別な親密さを分かち合い

大切にしているものがどこかで交わりあう


おそらく60過ぎくらい

スタジオがこの場所に変わった今も

いつも通りクラスで会う


以前はクラスでよくハンドスタンドのデモを頼まれてた

美しく力強いポーズは魅力的で

その練習は優雅だった


私がここでいう優雅というのは

動きや形が美しいという意味ではない

(それらはどこかで繋がっていくのだけれど)

そうではなくて

その練習から、その人が大切にしている何かが

とても自然に、そして穏やかに、いつも浮かび上がっていた


そのようなもの


それはかすかに 尊さ という色を帯びている


10年前と今を比べたら

私たちのプラクティスは変わってきたし

それは当然のことだと思っている

年齢を重ねた体や故障などによって

その時々で何を取捨選択するか

練習は自然と変化する


それを望めば

(そう、真に望んでいたら)

プラクティスはより繊細に洗練され

そして私たちのあり方もそのように変化してゆくのだと思う


そのエレガンスは

ぐらついてバランスを崩すことや

チャレンジングなポーズができるとかできないとか

動きやポーズがどうであろうと

そうしたことに関係なく

そこにただ立ち上がってくるもの


多分、ずいぶん前に

練習は何かを達成するものではなくなっていて

静かになる時間、自分との対話の時間

日常の一部としてのリセットの時間になっているのだと思う

そこには、手放すなどという大げさな作業はなく

それは一連の自然な選択になっているのだろう


being comfortable in one’s own skin

自分自身であることを心地よいと思う


優雅であることは難しく

そして同時にシンプルだと思う

心の中に浮かぶ抵抗を

くぐり抜け、やり過ごし、時にゆだね

自分の心地よさの水源に手をのばすように


その深いところに正直であることで

それはびっくりするほど容易になるのだろうと思う


クラスの終わり

彼と私は、それぞれ壁にマットを沿わせ

お互いの視線があうと、ニヤリと微笑みを交わし

それが合図のように壁に脚をあげて

心地よいリラクゼーションへと溶けていく


穏やかさがあたりを満たす

口元に微笑みが浮かぶ


Love & Light

※ これは2017年7月に書いたものを移転しました。