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いかなくては ①

先週一週間は、お仕事で200時間ティーチャートレーニングで通訳をしました。毎回、このお仕事につくたびに、自分がトレーニングを受けた頃のことを思い出します。思い出すのは本当にいろいろな事。どれもこれも色とりどりの宝石のように美しい経験でした。

先日、ふと、あの頃の自分の姿が頭に浮かびました。ヨガとの出会いは本当に偶然。ジムのプールでひと泳ぎした後、帰りにふと並んだスタジオの窓を覗いたら、ヨガとバレエのクラスだった。そこで初めてヨガに出会いました。NYCに到着した翌日のことでした。

そこから文字どおり、引き込まれるようにプラクティスにのめり込んでゆきました。朝、夜明け前に起きてスタジオに向かい、十分なプラクティスして戻ってくると、いい加減長い時間が過ぎてしまいます。もちろんそこから院生のフルタイムのスケジュールが始まります。

院生の生活、結構大変でした。1週間でかなり分厚い本3~5冊ぐらいのペースで読みこなしていかないといけない。日本語でも大変なのに英語で消化しないといけないし、クラスでは積極的に声に出す必要もあります。準備しないと何もでてこない・・・。並行して、プレゼンテーションがあり、エッセイの提出、ティーチング・アシスタント、自分の研究とそのリーディング・・・時間なんていくらあっても全く足りないくらい、慢性の睡眠不足でした。

ヨガなんかに、そんなにこっきりと時間を割いて、スタジオに通ってる暇なんかない・・・というのが正直なところでした。「一体、あなた何やってるのよ?!」「◯時までにあのリーディング終えなくちゃいけなんじゃないの??」「正気か?」というような声が頭の中に浮かびました。

よく「あの時不思議な声が内側から聞こえたのです・・・」というようなお話がありますが、私の場合も、実際に言葉に表現したらそんな風にしか書きようがないという感じです。なにやってんの?という声が頭に浮かぶたび、

「いいの」

「いかなきゃ・・・」

「私はあそこにいくの」

って声がするのです。

嘘みたいですが。

こんな風に書くと、なんだかとてもスピリチュアルな感じがしますが、それらは多分誰もが経験したことがある、ほんの一瞬、頭をかすめるような言葉。見逃してしまうくらいに当たり前で自然で、そして、浮かんではさっと消えてしまうような性質のものだったんだろうと思います。

スタジオの行きも帰りも、ほぼいつも、私の頭の中は、モダニズム、超現実主義、デュシャンにフロイトにバフチン、フーコーやらベンヤミンやら、近代性、さらにはニューヨークスクール、ビートジェネレーションと禅などなど・・・そんなもので占領されていたと思います。こうやって書いただけでも、今も心がわくわくするようなテーマです。

やりたい事ができる生活。院生生活は大変なのは大変だけど、研究したい事を研究する自由が与えられ、それに没頭することが許される贅沢な時間でした。そして、私は自分の研究テーマを心の底から楽しいと思っていました。

その一方で、あの「いかなきゃ」という声には、何か揺らぎのないものがありました。

それはシンプルで

前にも後にも、何もついていない

「いかなきゃ」という言葉は

意思の強さや

有無を言わせない力強さ

というより

むしろ

疑いのなさ

無垢の強さ

大きな肯定/YES

そんな音色がありました。

だから

疑問とか

交渉とか

説得とか

立ちのぼる隙間がなかったように思います。

なぜそれほどまでにヨガに惹かれたのか

正直な所、今も、実はよく分からないでいます。

というより、理由はいっぱい「思いつく」し、

最もらしい理由付けも多分できてしまうのだけれど、

そのどれも、足りない、適切でない感じがします。

それに出会った

そういう表現が一番しっくりくるように感じています。

人生には

人でも、ものでも、事でも

そうした出会いがあるのだろうと思います。

あとはそれをどう聴くか。

シュルレアリストの好きな

miraculous という言葉や

magical という言葉が

私にとって、概念や熱狂でなく

現実的な色合いを帯びてきた時でした。

Love & Light

(続く)


※ 2017年3月に書いたものを移転しました。