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余韻

誰かがここにいた。
もうその人はここにはいないのに、なんだかその人の空気感が残っていて、
しんみりすることがある。

このコロナ禍でなかなか来れなかった母が数ヶ月ぶりに我が家にやって来た。
何をするでもないけれど来てくれると助かる。
子どもは大喜び。とにかく可愛がってくれる。
1泊のはずが2泊して今朝帰って行った。

母のものなんてひとつもないのに、いつもの部屋に戻っただけなのに、
なぜかさっきまで母のいた部屋には、母の雰囲気が残ってる。
母を恋しい歳でもないけれど、誰かがうちに来て帰ってしまった切なさを感じた。

そこで、思い出したことがある。
中学の卒業式で先生が泣いていた。
それを見て、私も悲しくなって泣いたのだが、ふと思った。
「でもね、先生。先生はまた新しい生徒が来ればへっちゃらでしょ?」と。
去られるより去る方が辛いと思った。

でも、それは違った。
それは仕事場で退職する人を見送った時だった。
悲しい!!
見送るの、悲しい!!
自分はこの場所から動かない。でもその人は行ってしまう。
新しい場所に行くその人が輝かく見えた。
私はここで変わらずいるよ。どうか私を忘れないでおくれ。
去った後に残されたその人の余韻は寂しさと悲しさを増した。
その後も新しい人が来たけれど、それはそれ、同じではなかった。
そう、去られる方が辛かった。

余韻て、なんなんでしょう。
人の余韻。
目には見えない。でも感じる。
それはこちら側が思ってる寂しいから来るのでしょうか。
余韻を感じて寂しいと感じるのではないのかなぁ。


そうそう、本や映画を観た後もありますよね。
ブルースリーの映画を観た後はみんなブルースリーになりきっていたと聞いたことがあります。
もう余韻に呑み込まれてるパターン。


余韻は気持ちい。
時に厄介。
自分に少し残り香のような膜をまとわせ、薄化粧のように数ミリ自分でない顔を持たせる。
人の残す余韻も、その人が帰ってしまった寂しさと、また会いたいの切なさで部屋や自分をまとってしまう。


今、母の帰った後の部屋でこれを書きながら、そんなことを思う。

さーて、母の使った衣類やタオルを洗濯して、今日の作業を始めるか。
今日の余韻はさらっと流せる。そのくらい。また来てね。


今日も読んでくださりありがとうございました。

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