見出し画像

童話 かいじゅうの足跡


はじめに

これは植樹プロジェクト「いわき万本桜」を題材にしています。
サクッと読める童話のような短編を目指して高校時代に試しで書いてみたものです。
楽しんでいただけましたら幸いです。



プロローグ 靄の中

一面に広がったその形を今でもかすかに覚えている。
あてもなく彷徨ったかのようにてんでバラバラの方向を向いて、たくさんの跡だけが残っていた。

「フルール、どこにいるの?」

遠くから私を呼ぶ声。聞き馴染みのあるその声にふと顔を上げる。

「お母さん?」

真っ白な衣に包まれた人影を母と認識するには少し時間が必要で、それでも声は確かに母であることを証明してくれていた。

「フルール、だめよ触っちゃ」

速足で近づいてきた母は咄嗟に地面に触れていた私の手を取り、またすぐさまどこかへ向かおうとする。

「あれはかいじゅうの足跡なの。危ないから触っちゃだめ。ここも危険だから早く移動するの。いい?」

母の手は固く、そして早くここから立ち去りたいという意思を乗せて私の手を握っている。
どんどん遠ざかっていくその足跡を私はただ見つめていた。

でもそのうち振り返ることすらなくなっていた。


始められた日々

チャイムが鳴るのとほぼ同時にクラス全員が椅子を引く。そのガタガタと皮膚の内側まで響く音、それが私の目覚ましだ。その正確なタイミングに今日も胸をなでおろす。

一日中頬杖を付いていたんじゃないかってくらい赤く染まった頬と肘をさすりながら、そそくさとカバンに荷物を詰め始める周りの背中たちを見やる。

両手で数え切れるほどしかいない同級生。一学年一クラス。学校中の全生徒が知り合いで、全同級生が友達。でもそこまで会話を交わすほどではない。話しかけられたら返事をする。その程度。そんな人間関係。

軽すぎるリュックを背負い、そっと教室を出る。重たそうに机を運ぶ列を避けるように、硬いローファーのソールに自分の踵を押し当てる。

今日も滞りなく終わりそうだ。あとは家に帰って、一日を終えるためのルーティーン。ご飯を食べてお風呂に入る。残った時間で暫定に過ぎない明日の準備。ただそれだけのはずだった。

「今、目が合ったよね」私は自分に問いかける。
ついさっきの出来事は本当か。それとも気のせいか。そして目の前にいるこいつは。

一瞬の出来事だった、気がする。道路を突っ切ったばかりのこいつとばったり目が合ったのは。

気がするというのも、私が瞬きしたその隙にそいつは目を消滅させていたのだから。いや、消滅させたという表現もきっと適切ではないだろう。何せそいつに目が存在するわけがないのだから。

斜め数歩先にじっと留まる一つの像。そいつが道路を渡って来ただなんて誰が信じるだろう。ましてや動くはずがないのだ、こんな木偶の坊の人形が。

私は足首をくねくねさせながらじりじりと距離を詰め、そいつを真正面から覗き込む。しかし節々の角度はおろか、影すらびくともしない。

「やっぱり気のせいか」

重心を低く、後ろに突き出していた腰を元の位置に戻し、さっとそいつの前を横切ったその瞬間、短いため息と共に出た台詞に、そいつの影が一瞬揺らいだ。

今見た光景と「気のせい」という言葉を頭の中で何度か反芻している間に、いくらか反応が遅れた。
振り返ったとき、そいつはもうずっと向こうに走り去ろうとしていた。


 ♢♢♢


遠くを走るそいつが木彫りの人形だということも忘れ、私は夢中で追いかけていた。

すでに日は傾き、温度の上昇を諦めた風は火照った体を優しく撫でては汗の粒を吸い取っていく。

木偶の坊は見失ったかと思えばひょこっと物陰から現れ走り去り、また消えたかと思えば姿を見せるを繰り返した。道という道もすでに無く、草木の曖昧な裂け目を迷うことなく進んで行った。

気が付くと辺り一面、腰丈ほどの荒草に囲まれていた。聞こえるのは私が踏んで折れた草が地面で擦れ合う音ばかり。どんなに目を凝らしても木偶の坊は見当たらない。

不意に押し寄せてきた寒気と孤独感に全身の毛穴がキュッと痛んだ。

見覚えの無い場所だ。どうやってここまで来たのかも上手く思い出せない。

私はとりあえず回れ右をして、元の進行方向の逆を進むことにした。

地面に横たわった枯草が重りのように足に絡みつき、伸び盛りの荒草は風に揺られながら体が通って来た隙間を次々と塞いでいく。

敵陣に単独で切り込まされた歩兵のような気分だ。もはや完全に退路を失った。

風は容赦なく体温を奪い去り、着々と傾いていく太陽は日没までのカウントダウンを告げていた。
ただ立ち尽くす。足元には草の鎖。

喉の奥がグリグリと痛む。身に覚えのある心細さが内側では堪え切れないほどにとめどなく湧き出てくる。モスキート音になり損ねた高音が上あごの奥から脳に抜けるように響いた。たまらなくなって袖で目元を拭う。それでも足りなくてハンカチを持っていない自分を恨んだ。

ふと鼻をすする音の合間に、カサカサと草をかき分ける音がした。

あの木目。木偶の坊だと直感した。

足元の鎖はいつの間にか緩まり、荒草の波は凪いでいた。かすむ眼前のまま、私はちらっと見え隠れする木目の四肢について行った。

 

♢♢♢


地面に散らばる跡、跡、跡。何年か前にも似たようなものを見た。

「かいじゅうの足跡」

跡を見下ろしながらぽつりと呟き、その場にしゃがもうとした瞬間、

「桜だよ」

とすぐ近くから声がした。見ると隣に木偶の坊がすっと立っていた。
いつの間に取り戻したのか、くりくりの目でこちらをじっと見据え、長い鼻を私の鼻先に向かって真っすぐ突き出している。

「桜の花びらだよ、フルール」

そう言うと彼は私の足に右手を寄せ、左手で花びらを一枚掬ってみせた。土にまみれたそれはかすかに淡いピンクの色を放っていた。しかし微かな風にそっと巻き上げられると、また地面の跡に戻ってしまった。

「あそこに桜が咲いていたの?」

あの頃の情景が浮かんでくる。靄に包まれていた頃の記憶。

「思い出した?」

私は首を左右に振る。

「思い出したい?」

木偶の坊はそっと私の顔色をうかがうように鼻の角度を変えた。木目の間に埋まる目は未だ真っすぐ私の目だけを捉え続ける。思いがけず、私は深く頷いた。
すると彼はぱあっと顔を輝かせ、

「じゃあ僕と一緒に行こう。きっと思い出せるよ」

「ねえ、あなたは一体……」

「僕、キオだよ」

木偶の坊はそう言うと、私のスカートの裾をちょんちょんと二回引っ張り、またどこかへ行こうと身を傾けた。

「ねえ、なんで私の名前知ってるの?」

「待ってたの。フルールが見つけてくれるのを」

キオは両手を口元に寄せ、ニシシと笑った。

再び走り出したキオは少し進んではこちらを振り返り、また少し進んではこちらを振り返った。ついて来いということだろう。私は駆け足交じりで後を追った。


♢♢♢

 

長い廊下をキオに引かれながら歩いていた。キオの手は私のスカートの端をそっと握っている。

回廊は一歩進む毎にギシッと音を立て、曲線を描きながら丘の上まで長く続いていた。

木々の匂いが心地よく鼻を刺激して、体の内側が黄色く綿のようなもので染まっていくような感覚がした。木材の継ぎ目からわずかに差し込む西日は温かく私たちを包み込み、白色の光に変わって床まで降り注いだ。

靄のような白い光の中で二重の風景が水晶体に反射した。

「あ、この廊下……私、歩いてた」

 

♢♢♢


朝の白い光をくぐり抜けながら長い廊下を歩いていた。開け放たれた窓、土の匂い、鼻の奥がツンと冷える。上履きが床を跳ねる音、校庭を通って登校する声、ランドセルの中で教科書が揺れる感覚。

昇降口前の階段を上がって二階の奥から三番目、一年三組。前の戸はドア枠が歪んで重いから、後ろのほうから出入りする。

「おはよう」

戸を開けるのと同時にすでに来ていたクラスメイトに手を振る。
「おはよう」という声がぱらぱらと返ってくる。クラスの三分の一くらいはもう揃っていて、宿題を出したりおしゃべりをしたり、各々毎朝の集いをこなしている。

教室の壁側前方にあるストーブの周りは皆がこぞって集まる人気スポットで、換気のためにしばしば開けっぱなしの窓側の席は授業時間以外では誰も寄り付こうとしない。
そこの前から二列目。ここが私の席だ。
冷え切った机にランドセルを放るとすぐに内陸のストーブの前に移動して、宿題をやるのを忘れただとか今日の給食は何だとか昨日のテレビがどうだったとか、先生が来るまで延々と話していた。

そんな他愛もない日々の連続に突然fine.が打たれた。

かいじゅうがやってきた日以来、もうあの長い廊下を歩くことはなかった。


♢♢♢


長い廊下はもうない。小さなプレハブの白とグレーとシルバーの枠の中で1日約8時間。朝8時から夕方4時まで、規則正しい生活を、学生の本分をこなしていく。

毎日、工事現場の不安定な足場の上を歩いているような気がする。どこまでどの程度踏み込めるのか、その境界線を誰もが手探りで細かい機微を頼りに進んでいる。もはやその場に蹲り、動くことを諦めた者さえいる。

急遽埋め合わされた日常に私たちは鎮まっていった。

私はいつからか記憶が途切れ途切れで、それ以前のことがすっかり靄の中に隠れてしまっていた。

 

♢♢♢


「お母さんはあれをかいじゅうの足跡だって言ったの。ただの桜の花びらなのに」

一片ずつ地面に落ちた花びらの形は、確かに蹄のある生き物の足跡のようにも見える。

「かいじゅうって?」

キオはキュッキュと木材が擦れる音を立てて首を傾けた。

 

♢♢♢


あの日、青い光が降ったという。

校庭で帰りの挨拶をしている最中だった。
突然訪れた地面の大きな揺れに私たちはどうすることもできず、全員で一つに固まってそれが収まるのを待った。左右に上下に、あらゆる方向に揺れていた気がする。似たような揺れが何度も続き、それに耐えかねた地面や校舎はそこら中にヒビを生んでいた。

初めての体験にそれがどんなに恐ろしいものか十分にわかっていなかった私たちは、親の手に引かれるがままそれぞれ散っていった。その手から伝わる得体の知れない不安と恐怖だけが、私たちの持ち得たそれに対するすべてだった。

青い光は程なくしてやってきた。街を丸ごと飲み込んで、遂にはそこに住み着いた。私たちは逃げることしかできず、開け放たれたその土地をただ見つめるしかなかった。

奴らの住処になった今、足を踏み入れるには厳重なバリアと探査機のようなもので奴らの接近を防ぐ必要があった。私は真っ白な服を着せられ、母の隣に並んだ。

送迎のバスの中から少しだけ学校が見えた。昼間なのにやけに暗く、割れた窓々からは中の様子はあまりうかがえなかった。

家に着くと母はズカズカと足早に入っていき「必要なものだけ詰めるように」とピニール袋を一枚手渡した。私はその袋を受け取ったままその場に立ち尽くしてしまった。

靴のまま家に入る感覚はやはりおかしくて、そしてそれ以上にこの家が必要と不要とに明確に区別され、必要だけがさっさと回収されていく様子に私は耐えきれず飛び出した。

あてのない道を一人で歩いた。とぼとぼと地面を擦りながら。
すると一面に不思議な形の跡のようなものが広がっているのが目に入った。蜘蛛の子を散らしたように散乱するそれに私は夢中になった。

しかしその跡の多さの中で、ふと侘しさを感じた。時々吹く風が跡の形を変えて回ったが、初めて来た馴染みのない場所と母の不在に私は寂しさと焦りを感じていた。時間はみるみるうちに過ぎていった。

息を切らして迎えに来た母は疲れ切った様子で私の手を素早く取ると、急ぎ足で連れ帰った。連れられて行く最中、跡の花びら達が私に吸い寄せられるようについてくるのを感じた。しかしそれも一瞬で、すぐに元の場所に戻るよう風に巻き上げられてはたりと散った。

青い光と共に降り立ったかいじゅうは辺り一帯を見えない何かで染め上げた。それは人間に対しあまりに凶暴でむやみに近づくことは許されない。

私の生まれ育った街はバリケードで固く閉ざされた。家も学校も桜トンネルも。

 

♢♢♢


「桜トンネル?」

回廊を渡り切り、丘の上の拓けたところに辿り着いた頃、キオはハッとした様子で聞いてきた。

「そう、春に満開の桜並木がトンネルみたいに道を覆うところがあったの。とっても綺麗で人気だったらしいよ。私は覚えてないけど」

「行ってみたい?」

私は小さく頷いた。
キオはそれを見るやいなや、座っていたベンチからぴょんと勢いよく飛び降りた。

「じゃあこっちに来て」

キオは私のスカートを握る手を強め、丘と隣接した森の茂みの奥へずんずん進んでいく。

辿り着いたのは山一面の桜景色。圧倒的なピンクの量に思わず息をのむ。

「キオ、なあにこれ!」

「万本桜、僕の生まれた場所」

キオは懐かしむように目を細めた。

 

♢♢♢


「このままいけば二五〇年くらいかなあ」

老人は背中を丸めたまま呟いた。
コスッコスッと木を削る手には皺が深く刻まれている。太い指と指との間に埋まるように持った彫刻刀はところどころ錆かけ、それでも削ったあとはとても滑らかに手に馴染んだ。

「プルトニウムの半減期は二万四千年だってからなあ」

老人は悔しそうに奥歯を噛み締め、息をひとつついた。

僕の身体はこの左脚をもって完成する。長いような短いような時間だった。まず頭ができ、鼻ができ、首、胴体、両腕、両脚の順で取り付けられていった。関節はしっかり曲がるようになっているし何よりこの真っすぐ長い鼻。

僕はテーブルに腰かけていて、それと対面する形で切り株のような椅子に老人が座る。彼の前屈みの姿勢は座ってもなお同様で、そのおでこと僕の鼻先はぶつかりそうでぶつからない絶妙な距離を保っていた。

僕が完成したのはそれからすぐ後のこと。僕は回廊の門番を託された。毎日デッキに腰かけて訪ねてきた人々を出迎える。老人は不在が多く、僕の仕事は欠かせなかった。

彼はしばしば僕を連れて隣の山へ入った。そしてある時には独り言のように、またある時には僕に言い聞かせるように話をした。

全部で九万九千本、この山一面に桜の木を植える。宇宙からもここがピンクに染まっているのが見えるくらいの世界一の桜の名所を作る。それが老人の願いだった。万本桜と名付けられたこの活動は、老人の見立てだと達成まで二五〇年かかるという。その歳月の長さに彼は目尻にぐっと幾重にも皺を寄せ、小さく息を吐くように笑った。

足を大きく開き、お辞儀のような前傾姿勢のまま大きなスコップで穴を掘り、桜の苗木を植えていく。手伝うことのできない僕はせっかくの関節の曲がる手足をすっかり持て余してしまった。

桜は年に一度、春にだけ咲く。いつか山全体を覆ってしまうほどの桜吹雪を巻き起こして、地面に辿り着いた花びらは枯れ分解され土に戻り吸収され、そしてまた一年後、花を咲かせるだろう。そんな繰り返しをこの地で、そしてこの地を飛び出して育み続ける。

二五〇年後の景色はどんなだろうか。僕たちはきっとその壮大な景色を見ることはできない。後の時代、もしかしたら子孫かもしれない誰かがこれを見て、僕たちを思い出してくれはしないだろうか。この想い、この名前、この土地を。僕たちは想像のつかない未来に託す。この灯を、つながりを、連続を、どうか遥か先まで。

僕のこの手足は何か重いものを持ったり老人の仕事を手伝ったりすることはできない。でも導くことならば。目に見えないものを宿し、記憶し、つなげることならばきっとできるかもしれない。

僕たちは遺産を築いている。

 

♢♢♢


道の真ん中は車が通れるようになっていて、その両側に桜の木がずらっと並んでいる。春、満開の桜並木は車の通るその真上まで、まるでトンネルのように花びらで覆う。

幹から遠く伸びた枝先の花びらは光を透過させ白く輝き、向かい合った木々の枝が触れ合う境目に煌々と天の川を作っている。風が吹くと互いを愛撫するように柔らかく波打ち、花びらは傷つくことを知らずにさやさやと揺れる。

見通す限りの桜色。明治時代の植樹に由来した数百本にも及ぶその共奏はあまりにまばゆく、その色合いの儚さに胸が震える。

「ここだったんだ」

靄が一気に晴れ渡っていく感じがした。

私はここに来ていた。
あの日、とうとう手は届かなかったけれど、見えない汚れに怯え捨て去ってしまったけれど、毎年変わらずここで咲いているのだ。

私は触れられない記憶に手を伸ばした。

 

♢♢♢


「あったよ、桜トンネル。私、覚えてた」

胸に手を当てる。こみ上げてくる熱さをぐっと噛みしめる。

「ありがとう、キオ。待っててくれて」

キオは両手を口元に持っていき、ニシシと笑った。

 

♢♢♢


この山の桜はつながっているのだ。
時代も場所も超えて、記憶を、想いを、その身に宿して。

 

♢♢♢


プレハブの白とグレーとシルバーの枠の中を一気に駆け上がる。
何段飛ばしで登っているか、もう意識はない。
足を着く毎にタンッタンッと小気味いい音が壁を伝って、閑散とした廊下にとてもよく響く。

もう皆は席に着いて先生を待っている頃だろう。
ガラガラと大きく音を立て、力いっぱい戸を開ける。
息を思いっきり吸い込んで、開口一番、

「ねえ、桜を見に行こう!」





いいなと思ったら応援しよう!