蛙が世界を変える。いや無理か。やっぱり帰る 〜正義感と換えるもの〜
世の中を変えたいと思うことがある。
…つまり、文句言ってるだけ。
僕には少なからず正義感があって、でもそれに負けないくらいの、余計なことで波風立てたくない感を所持している。
ニュースを見たとき。
職場で体制に疑問を持ったとき。
世の中こうあるべきだという理屈のようなものが浮かぶけれど、そのシャボン玉は空には届かない。
石鹸がキラキラ反射するかの如く、大小様々な意見を吹き出してみる。
シャボン玉は大きいほどに狙われる。
放っておいても届かなかっただろうが、結果を待たずして誰かに割られる。
なぜ人は、潰すことが楽しいのか。
キラキラする程に割りたくなる。
積極性が無いハズの人達が、不満や批判となると急に身を乗り出してくる。他人を貶めれば相対的な優越感が味わえる側面もあるだろうけど、子どもがシャボン玉破壊ごっこを楽しむことを思えば、もっと本能的なことなのかもしれないなぁ。
ともかく、そんな破壊活動は安全第一がモットーであり、危うい相手に対しては発現しない。
醜いというか、賢いというか。
つまり僕の正義感は、略してミニ賢い、ごくごく一般的な村人Bくらいのレベルなんだな。
勇者でも戦士でも賢者でもない。
何かを壊すことは簡単だけど、変えるということは、新たに作るということ。この、作れるかどうかが、村人と英雄の境目ということなのかな。
英雄は、生まれた時から英雄な訳じゃない。きっと村人だった。だから、僕が英雄になれないとも限らないのだけれど、英雄とはつまり村八分だ。
みんなのため、というイメージがある「正義」だけれど、こうして考えてみると自身のためのものだし、正義を貫くリスクって高いな。
心の傷と交換して得るものなのかな。
(それにしても、村八分って、絶交するけど火事と葬式だけは協力するとか。消火はまぁ周りにも被害が出るから分かるけど、埋葬は…?臭いから?どっちも自分達の都合だろうに、これを「二分だけは関わる」と表現するのは違くない?村100%で良くない?)
…なんの話だっけ?
まぁいいか(いいのか)
要するに、こうやって話すこと自体が目的みたいになってる奴には、世界は救えないってことだな。
おとなしく帰ろう。
訛りながら言うと
けぇろう。けぇろう。
蛙の鳴き声みたいだな
(無理があるか)