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チャットAIの進化と生身の人間がなすべきことについて

月に一回、noteメンバーシップでオンライン・トークセッションを開催しているけれども、

先日のテーマはズバリ、「ChatGPTに代表されるチャットAIがこの社会の何をどう変えていくのか」だった。

このところ、ネット上でこの人工知能の話題を目にしない日はない。ちょっと過剰かもと思うぐらいの反響ぶりだが、大騒ぎする気持ちも判らないではない。(ただし、日本は海外より相当遅れていて、向こうはすでに次のフェーズに移ってるらしい。まあ、いつものことですけど)

なにしろ、自然言語で「◯◯してね」と問いかけたら、文章は書いてくれるわ、プログラミングはしてくれるわ、絵も描いてくれるわ、ウェブサイトは作ってくれるわ、で、しかも瞬時に答えを返してくれる。一部、情報が古いとか、適当なつなぎ合わせを返してきて信用ならぬとかはあるにせよ、使いようによってはまさに鬼に金棒(古い)なツールなのだから、騒ぎになるのも当然だ。

この「自然言語で」というのが肝心で、今までなら知りたいことを検索して、(ということは検索するためのキーワードを自分で考えてから検索して)その検索結果をいちいちチェックして、はじめて「あー、なるほど」となっていたのが、これは、ただ訊けばいいわけで。

それどころか、すでに音声認識できるレベルまで達しているんだそうで、言ってみれば、Siriに話しかけるように(ま、あれもAIの一種かもですけれども)AIと交信できるようになって来たという、その進化のスピードに呆れる、というか、もはやついていけそうにない。

かく言うぼくも、これからの仕事のやり方がガラっと変わると思い、TwitterでオススメされるままにChatAIにお詳しいアカウントをフォローしてみた。以下、ご参考までに貼っておくが、もうお腹いっぱいだ。

とりあえず、基本的なところはこの記事を参考にしていただくとして、

ここにも「まさに我々は生成系AIの登場によって第三期情報革命を目の当たりにしようとしている」とあるが、その一方で、AIが過去のデータの蓄積からの反復を得意とするならば、我々人間がすることがなくなってしまうのではないか、という怖れを抱く人もいて、これまた大騒ぎしている。

ぼくは、モノを書いたり編集したりする仕事もしているので、当然、これをどう使えば仕事の能率が上がるかを考えた。

例えば、テーマがあって、読者はどんな層で、押さえておきたいポイントはこれとこれとこれで、どういう構成で、タイトルや小見出しはどんなで、結論としてはこのへんを落とし所にしたい、それを5,000字でまとめる、といったタスクを与えると、「はいはい」とそれらしい構成案をちゃっちゃと返してくれる。

モノとしては最高とは言えないまでも、まあまあ、叩き台的には十分使用に耐えうる。その分、時間とコストを節減できるのは確かだ。そこから先は自分のアタマで考えた味付けを施す必要はあるが(でないと、ホントに仕事を失う)、要するに、アシスタントとして使うとするなら過不足なさそう。

ちなみに、今、この記事を書いているnoteにも、ChatGPTは実装されているので、上記のようなタスクを投げれば手伝ってくれるようになっている。ぼくはまだnoteでは使っていないけれど、そこかしこにこの手の機能が仕込まれていくのは自明の理だ。

ただし、適正な答えを得るためには、自分が何を求めているかを的確に言葉で伝えなければならない。なので、テキストか音声かを問わず、コミュニケーション能力が問われる。実のところ、ここが怪しい人が結構いたりするけれども、そこはまたAIに学習能力があるので、克服するのもまた時間の問題なのだろう。

それはいいとして、では人間は何をするべきか、という高尚かつ深遠な問題がここに勃発する。

人間がやらなくてもAIがやってくれることは、今後、どんどん増えるだろう。そうなってくると、コストが低減できる分、モノの価値も変わってくるだろうから経済構造も今までとまったく違う姿になる可能性がある。

が、それよりもっと怖いことに、いよいよ労働意欲も失せるのではないか、いや、もっと言えば生きる希望も失って、下手すると「生きていることに何の意味があるのだろうか」と絶望する人も出てくるかもしれない。それはマズイ。

とボヤいてたら、「AIは文脈を追って、過去の膨大なデータから使えるものを引っ張ってきて、ただ言葉をつなげているだけ。つまり、思考しているわけではない。だから、AIにはオピニオンがない。我々にはそれができる」というTweetに、あー、そういえば、と腑に落ちた。

つまるところ、現時点では非常に便利な道具として使えるハッピーな部分と、人間の存在価値まで失わせてしまいかねない危険性とが表裏一体となっていることに注意を払いつつ、「作業」はAIに任せて、人間ならではの身体的な活動を怠らないことと、その活動体験から得られる自分の意見(オピニオン)を表明することが大事かな、と。

てなこと言ってたら、山口周さんがこう書いた。

いわく、

今後の人間に求められるのは「外れ値」ということになります。つまり正規分布の両側の端っこのことですね。別にこれは新しい話ではなく、これまでもずっと「外れ値」で戦ってきた人というのはいるわけです。
例えば音楽・アート・文学・建築・料理・ファッションといった領域で、突き抜けた存在になるためには「中央値のアウトプット」ではまったくダメで「外れ値のアウトプット」が求められる。

まさに、AIの出してくるものは中央値の「外れない」ものばかりだ。いわゆる「正解」かもしれないが、オモシロみに欠ける。それを、「生身」の人間は敏感に感じ取る。何も奇抜なものである必要はない。ちょっと視点をずらすことで生まれる別次元の価値はあるはずだ。そこに目を向けよう。

さて。

コワーキングでは「作業」ではなく「仕事」をしようと、ずっと言って来たけれども、AIの出現によっていよいよそれを避けがたくなってきた気がする。

そして、今後、我々がコワーキングというスキームを使ってなすべきことは何なのか、それが早晩、共通の課題になると思う。

というか、実はそれは、最初からずっとそこにあったのだけれども。

そのことは、いずれまた話し合いたい。

(カバー:Emiliano Vittoriosi

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