【小説】スペース 後編
……トイレに閉じ込められてから、もうどれくらい時間が経ったのだろうか? と何度自問自答したのだろうか? もういい加減ウンザリだという境地も何度か過ぎて、もはやウンザリしなかったり、それでもやっぱりまたウンザリしたり、わけがわからぬ。
なんとか時間を知る方法はないものか、と頭を捻る。刑事ドラマで見たことがあるけど、検死では遺体の胃の内容物の状態から死亡時刻を推定するのだった、最後の食事から何時間後とか。でも、故人がものすごく不規則な食生活を送っていたらどうなるのか、それともダイエット中とか、更には断食中とか。いずれにせよ、自分の胃の内容物の状態など知りようもないではないか……。
……あれ? 俺、今意識失ってた? まさか眠っていたのか。腹は減っていないし、喉も渇いていないということが錯覚のように感じられる。とりあえず立ち上がり、レバーをひねって手洗管から流れる水を掌に受け、口元を湿らせる。
しょうがない、最後の手段だ、ドアを蹴破るしかない。直すのにお金がかかるが、背に腹はかえられぬ。狭いスペースだから助走もできず、便座に掛けたままドアを思い切り踵で蹴ると……とんでもない激痛が膝を走った。まさか傷ひとつつかぬとは、えらく丈夫な板張りだ。一体何のためにこんな頑丈な扉を選んだのか、いっぺん大家さんに訊いてみたいものだ。トイレ閉じ込めというリスクに対するマネジメントがまるでできていないではないか。
右足で蹴ってダメなものは、左足で蹴ってもダメなものだ。両膝がオシャカになり、今度は肩でタックルしてみたが、ビクともしない。斧とは言わず、せめてバールか鉄パイプでもあればなあ。もちろん、そんなものはそもそも家に存在していないのだけど。
とうとう万策尽きたのだ。じわじわと長い時間をかけて、誰にも気づかれることなく、気遣われることもなく、ひとりぼっちで餓死するしかないのか。冷蔵庫から出られなくなった子どもや、片道切符の人工衛星に乗せられたライカ犬がなんとなく浮かぶ。たしかにここは冷蔵庫より広いし酸素も十分だし、何より地球だ、重力を感じる、けどなんなんだこの孤独感は。まるで自分が宇宙飛行士で、通信が途切れ、食糧も尽き(けれども水と酸素ばかりはたっぷりある)、銀河の果てを彷徨うか、遠い遠い惑星の基地にひとり取り残されたかのようだ。
応答せよ、応答せよ
中央管制塔
助けはまだか?
もう限界だ……
つまらん人生だったけど、まさかこんなつまらん死に方をするとは、ある意味で俺らしいとは言える。会社の同僚や上司は、リストラされてしまえばもはや赤の他人だし、友だちもなし、恋人もなし、考えてみれば、閉じ込められなくても元から孤独だったんだ(しかし、一旦閉じ込められてみると、この孤独の味わいは格別である)。田舎の両親はまさか都会で息子がこんな最後を迎えるとは思ってもみないんだろうな……ああ、と俺は天を仰いだ。つまり、天井を見た。
……天井点検口がある。時に屋根裏を駆ける小動物の足音がしたり、かそけきチューチューが聞こえてくることがあって、大家さんに対策を頼もうかとも思ったりもしたけれど、家賃も遅れがちであるし、そう頻繁にあるでもなし、なんとなく放置していたのだが。自分で鼠取りや、殺鼠剤、くん煙剤を使用するにしても、どうやって天井に上がればよいのか、なんて考えたことがあった。それが、まさか、トイレの天井に点検口とはね。人は習性として、トイレで天井を見上げたりすることはない、スマホを見たりうつむきがちだと声を大にして言いたい。
天井裏を伝って隣の部屋のトイレの点検口まで行けば、助けを求められる。これしかない。両膝は痛むが便座の蓋に載って、点検口の扉を押して開けようとしたその時、メリメリとヒビが入って、俺は、というか俺の両足は便器の中へすっぽり吸い込まれるように落ちて水浸しになった。その上バランスを失って、そのまま倒れ陶製のタンクで後頭部をしたたかに打った。
便器に足を突っ込み、ひっくり返ったままの体勢で、しばらく動けない。そのしばらくというのが、具体的に一体どれぐらいの時間なのかはわからないけれど、その間に自身の愚かさに対する怒りと、どこか投げやりな諦念が入り混じった奇妙な感情に満たされて呆然としていたのだった。
やがて心がしーんと鎮まってきて、いまこの瞬間に命を失っても文句のつけようがない、それどころかむしろ進んで死を求めるような気分にさえなったのである。飢えて死ぬことには耐えられそうにもないが、瞬間的で無痛の死なら望むところだ、と。
応答せよ、中央管制塔
こちら……こちら……
ははは……と気がつくと笑っている、わはははは。なんとくだらなく、なんと愚かしく、なんと惨めなんだろう。涙すら流して笑っていた。
すると、玄関のチャイムが鳴った。とうとう気が狂って幻聴まで聞こえてきたか。
「……さん、……さん、今月のお家賃……」
しめた、大家のおばさんだ、合鍵を持ってるはずだ。わざとではないけれど、家賃を滞納しておいて本当に良かった。ここぞとばかり扉を叩き、人生史上最大音量の声を振り絞る。
「おーい! た・す・け・て・く・れー!」
結局、大家さんでは外からでもトイレのドアを開けることができず、業者を呼ぶことになった。原因は、ノブと連動して動くラッチボルト(ほら、ガチャっと音をたてて引っ込んで、ラッチ受けの凹みに入るあの出っ張り)の不具合だった。単なるスプリングの劣化だという。
「今、何時ですか?」それこそが最大の気掛かりだというように、俺は訊いた。
「十時よ」と大家さん。
「夜の?」
おばさんは肩をすくめた。もちろん、周囲が明るいのは人工の照明のためではない。
たったの二、三時間が十二時間以上、それどころか引き伸ばされて二十四時間にも感じられたものである。
それにしても家賃の滞納がなければ、一体俺はどうなっていたのだろうか……。え? 禁酒禁煙したのかって? 野暮なこと訊きなさんな。もちろん、献血、寄附、ボランティアもしてないよ! でも、今これを書いてるのは、トイレの中。
(了)