見出し画像

家族ってなんだろう。

家族ってなんだろう。
家族との別れは、いつかやって来ます。
そんな事を考えた事はありませんか。
前回は、両親と同居するまでの父について語りました。
今回は、同居後から父との別れまでを語ってみたいと思います。


第4回  父親 編 その2

1 両親との同居後

私は3人の子供にめぐまれ、同居後は私の家族5人と
両親の合計7人家族で暮らすことになりました。

父は孫をそれはそれは目に入れても痛くないほど可愛がっておりました。
お食い初めや端午の節句、桃の節句、七五三や秋祭りなど
また、幼稚園や小学校に上がれば運動会など
欠かさずビデオカメラを回していたものです。
頑固おやじも孫の前ではデレデレですね。

また、その頃から父は社交ダンスをはじめるようになり、
外面はいい人だったので、母と一緒にあちこちへ踊りに行っていました。
凝り性の父は社交ダンスを教える事ができるライセンスまで取ってしまったのです。
恐るべし、頑固おやじの探究心…
それから孫たちも大きくなり、父と母の2人は社交ダンスを楽しんでやっていました。

しかし、悲劇は突然やってくるものです。

2 胃癌で倒れる父

同居してから12年後のある日、私は妻と子供たちを連れて遊びに出かけていました。
しばらくして母から電話がかかり、父が口から血を吐いて病院へ運ばれたと連絡がきたのです。私たちは慌てて帰宅したのでした。
病院に駆けつけた私たちは緊急手術が行われ、胃を全部摘出されたと聞かされました。
病院嫌いの父だったので血を吐くまで発見が遅れてしまったのでしょう。
幸い手術は成功し、命に別状はないとのことでした。

3 抗癌治療とリハビリ

手術後、胃が無くなってしまった父はみるみるやせ細り、
抗癌剤のせいで髪の毛も無くなってしまいました。
そして、なんとかリハビリも終わり家に帰って来た父ですが、「もう社交ダンスができない」
とふさぎ込みがちで、ため息ばかりついていました。
元気のなくなっていく父は、私もあと1年ほどで生きる気力を無くしてしまうのではないか。そんな事を考えたこともありました。
しかし、手術後の父は健康管理をするようになり、私が案じていた事が嘘のように回復していったのです。

4 それから14年後

幸いにも父は元気になり、社交ダンスはもう出来なくなってしまいましたが、病院へ通いながら趣味で家のDIYなどをやり、毎日平凡に暮らしていました。
身体は弱ってしまったが頑固さは昔のままで、私の言うことは一切聞こうとはしません。
「老いては子に従え」ということわざは我が家には存在しませんでした。
しかし、嫌いでたまらなかった父の頑固さも、今では愛おしく感じます。

そして、一昨年の年末になりました。

5 父との別れ

年の瀬も近づき、世間が慌ただしくなった頃、
父は腰が痛いと言い出したのです。
シップを貼ったり、腰を揉んだりしていたのですが、日に日に痛みが増していく。とうとう立てなくなり救急車で病院へ運ばれ、またも緊急手術となったのです。
病状は腸に行く動脈に血栓が詰まっていたのだと医師から説明されました。私も妻もホッとしたのでした。
しかし、血液が通っていなかった腸の常態が良くないので、明日まで様子を見るとのことでした。

その夜、父の回復を願い病院の待合室で私と妻は一夜を明かすことになったのです。
そして翌朝、医師から説明を受けました。

「腸の回復が見込めず、治療としては腸を全部摘出するしか方法がありません。そうなれば命を繋ぐ事が出来なくなります。残念ながらもう手の施しようがないようです。」

私たちの願いも虚しく、それを聞いた私は医師の先生の前で涙が止まらなくなってしまい、いつかこの時が来ると覚悟はしていたのですが、もっといろいろ話しておけば良かった。そんな思いが頭を駆け巡っていたのです。
そんな泣きじゃくる私の背中を妻は優しくなでてくれていました。
そしてその翌日、父は帰らぬ人となりました。

6 最後に

大事な人との別れは辛いものです。
しかし、これは生きている以上さけては通れないことなのです。
死もそうですが、結婚や転勤など、今まで一緒に暮らしていた人がいなくなると、心にポッカリ穴が空いてしまいます。

しかし、人はそれを乗り越えてこそ強くなっていくのです。


私はそう思っています。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集