見出し画像

6-02「切り離された音」

連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。前回はRen Honnma「都市の息づかい」でした。

5、6巡目は「前回の本文中の一文を冒頭の一文にする」というルールで描いています。

【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center

【前回までの杣道】

6-01 「都市の息づかい」Ren Honnma     https://note.com/nulaff/n/ndf8ee294b04e?nt=magazine_mailer-2021-07-28 

5-09「ショット」C Tanaka          https://note.com/tttttt_ttt/n/n31b7c35ca8fc

__________________________________

都市にはその都市特有の音、リズム、息づかいがありそこに住む人たちを取り囲む。 が、そこに住む人たちは都市の音がつくりだす、その特有の息づかいに気づくことは稀である。だからといって、都市の住人たちが、音、リズム、息づかい、いわば都市の雰囲気を感知していないわけではない。ただただ彼らは雰囲気のなかに浸っている。つまり、受動的に感知している雰囲気を、それと気づくまでの距離を持っていないがゆえに抽出することができない。距離の不足とはつまるところ対象化-形式化できないということである。とすれば、彼らがその雰囲気に気づくためには、雰囲気そのものから離れ、対象化する契機が必要となるわけだ。                                                                  
たとえば、車の音がうるさい、子供たちの騒ぎ声が気に触るという人は、おそらく街の暮らしが営む日常から離脱している人が多いのではないだろうか。リタイヤした老人、蟄居している人、孤独な人々・・・。つまり、暮らしという文脈から音が切り離され、純粋な音だけが突出してしまう(もちろん、暮らしの音を騒音と感じる人には、さまざまな心理的要因があるだろう。ここで述べることはあくまでも原理的な仮説にすぎないことを断っておく)。 

他方、その都市で暮らしていない、外からの訪問者もまた、そこで暮らしていないがゆえに、音だけを切り離して聞くことができる。さらに街の音からリズムや息づかいを抽出し、その都市特有の雰囲気を感じとる。いわば美的に観照する(距離をとる)ことで、快の感情を引き起こすというわけだ。前者と後者の違いはどこにあるのか。どちらも暮らしの文脈から切り離して音を受容しているが、前者には騒音となり、後者にはリズムや都市の息づかいとなって快の感情を喚起する。

パスカルはどこかで、「あまりに大きな音はわれわれを聞こえなくするし、あまりに強い光は目をくらます。あまりに遠すぎても近すぎても、見ること妨げる」と語っていたが、同じことが言えるのか。やはり距離が問題なのか。通常、都市で暮らす人たちは、日常の営みのなかで音を受容し、つまり諸感覚(感官による身体的受容)との連環のなかに溶け込んだ音を聞くことで、ことさらに音そのものに関心を向けることがない。諸感覚の連環から切り離された音を騒音と感じとる人たちは、音を何らかの諸感覚の秩序に回収できず、ノイズとしての音だけが突出して聞こえてしまう。十分な距離が不足しているということか。とすると、リズムや都市の息づかいを感じとる外からの訪問者は、日常の連環から切り離された音と十分な距離をとることで、離脱した音を諸感覚との新たな連環へと再構築しているのか。なぜ、十分な距離をとることが可能なのか。距離をとることでわれわれの精神はどのように作動しているのか。諸感覚の新たな連環、あるいは諸感覚の再配置とは何か。

ここまではカント的な美学に即した話である。ここで唐突に迂回して、複製技術という問題を介入させてみたい。どういうことか。録音機器や写真装置の登場後、諸感覚の連環やその秩序、受容の仕方がどのように変化したのか、ということである。ここまで音について話してきたので、録音技術に焦点をあてて話を進めてみたい。

録音された音を聞く場合もまた、諸感覚との連環から切り離された、音そのもの、あるいは音の連なりを聞いている(ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」のなかで、技術的複製は文脈から切り離された、その独立性を持っていると指摘しているが、同じことだろう)。このことは前述した、都市の外からの訪問者の観照的な態度と類似している。そこからリズムや息づかい、何らかの雰囲気を感知することが可能になる。これは実は、音楽と呼ばれるものを聞く場合にもあてはまることだ。われわれが音楽を聞く場合、やはり具体的な音から切り離された音そのものが再構成された音の連なりを聞いている。いわば抽象化-形式化された音の連なりにより、何らかの演出された雰囲気が形成されている。

ところで、録音機器の登場する以前の音楽は、楽譜がいわば録音の役割を果たしていた(同様に、視覚の世界では、写真装置以前は絵画がその役割を果たしていたといえようか)。楽譜は音楽(音の連なりの秩序)を成立させる、さまざまな要素(音の高低、強弱、長短、連なりのリズム等々)に分解し、記譜(再構成)したものだ。その意味で音楽を再生させるための録音装置でもある。

では、録音装置と楽譜の違いはどこにあるのだろう。どちらの音も諸感覚の連環から切り離された音には違いない。しかし、楽譜として記譜された音は、きわめて抽象度が高い。だからこそ、その形式性を追求することができたし、いやむしろ楽譜を介した音楽は形式性こそが音楽の本質であったとも言えるだろう。録音装置による音はどうか。録音もまた抽象化された音には違いないが、楽譜による形式化に抗う要素を含んでいる。ドイツの現象学者ヘルマン・シュミッツの言葉を借用すれば、準物体的なものを含んでいる。いわば表象化以前の諸感覚をあらわにしていないか。カント的に言えば、主観の合目的化を経ていない、主観/客観の未分化状態。ベルグソン的に言えば、録音された音は物の情報を含む、何らかの物である。

ここで問題になっているのは、「表象(representaion)」の属性の違いなのか。カントにおいて主観に快の感情をもたらす「表象」は、形式化された純粋な心像であって、客体(物)の情報は微塵も含まれていない。しかし、録音装置がもたらす音の「表象」は、物の情報を完全に消去することはできない(つまり、純粋化できない)。録音された音は、もちろん生の音(直観的な音)とも異なるが、だからといって十全に形式化されることもない。このどちらでもないあり方こそが録音の力ではないか。

録音装置(写真装置)の誕生以後、明らかに音の「表象」に変化が起きているのではないか。カントが録音装置や写真装置の存在を知ったならば、何を語っただろうか(写真装置はカントの死後35年後に、録音装置は73年後に登場することになる)。彼の三批判は書き直されただろうか。それとも、いささかの修正も施すことはなかっただろうか。


いいなと思ったら応援しよう!