2-06「カントの背後にまわって、美を穿つ」
7人の読書好きによる、連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。
前回は葉思堯の「二人劇」でした。今回は親指 Pの「カントの背後にまわって、美を穿つ」です。それではお楽しみください!
【杣道に関して】
https://note.com/somamichi_center/n/nade6c4e8b18e
【前回までの杣道】
2-05「二人劇」/葉思堯 https://note.com/celes/n/ned45d87e934a 2-04「トビとジェラート」/屋上屋稔 https://note.com/qkomainu/n/n67b74aa7e1dd?magazine_key=me545d5dc684e
カントのかの有名な「美の無関心性」ー「趣味判断(美学的判断)を規定する適意は一切の関心にかかわりがない」*1について考えてみたい。周知のように、カントは、何かあるものが美しいかどうかを判断するのは、感覚的に快い(快適なもの)かどうかでもなければ、概念によって快い(有用なもの・善いもの)かどうかでもないという。快適なものとや有用なもの・善いものは対象に対する関心と結びついたものであるのに対して、美しいものはそうした一切の関心を欠いた判断というわけである。
ここで、改めて問うてみたいのは、一切の関心に関わりのない判断とはどういうことか、ということである。一切の関心を欠いた判断とは何か。ハイデッガーもまた、『ニーチェ』*2のなかでカントの「美の無関心性」について触れ、「美しいものを《関心なき》適意と規定したとき、カントは何を言おうとしたのかと問うている。《いかなる関心をも伴わぬ》とは、何のことか」と。ハイデッガーはまず、カントは「美の無関心性」において、美しいと判断するための規定根拠を述べたわけでも、美そのものが何であるかを述べたわけでもないと言う。むしろカントは、美を規定するための消極的条件として、まずはあらゆる関心によって強いられる判断を排除しなければならないと言っているのである。したがって、一切の関心を排除された対象が美というわけではない。そうではなく、一切の関心が排除されてはじめて、美しいものの判断が可能になるということである。
では、ハイデッガーは一切の関心が排除されることによって、何が生じると言っているのだろうか。「《関心》の誤解にひかれて、関心を排除すれば対象へのいかなる本質的な関わり合いも立ち消えになるという謬見が生じる。実はその反対が真実なのである。対象そのものへの本質的な関わり合いは、いわゆる《関心なき》によってはじめて働き出すのである。人々は、そのときはじめて対象が純粋な対象として現れ出て、この出現が美なのだということを、見ていない。しかし、「美しい」という言葉は、このような出現の映えにおける現象を指しているのである」。
ここでハイデッガーは、快適なものや善いものに関わる関心を中断することで、対象との本質的な関わり合い(関心)が生じると言っているのである。つまり、一切の関心を排除することは、対象との本質的な関わり合い(関心)をうながすためであり、そのとき現れ出る純粋な対象を、ハイデッガーは出現の映え(輝き)としての美と呼んでいるわけである。
ところで、カントは第1節の冒頭で「何か或るものが美であるか否かを判別する場合には、その物を認識するために表象を悟性によって客観に関係させることをしないで、構想力(恐らく悟性と結びついている)によって表象を主観と主観における快・不快の感情とに関係させるのである」と言っている。したがって、ここで言われる対象とは、構想力によって快・不快の感情に関係づけられた「表象」のことである。カントは第2節でも、「我々が対象の実在〔実際的存在〕に結びつけるところの適意は関心と呼ばれる」と述べている。つまり、ハイデッガーが言う「対象との本質的な関わり合い」によって生じる「純粋な対象」とは、構想力による、実在的なものとの関係(つまり客観性)を断たれた「純粋な表象」(構想力の自由な戯れ)のことである。
したがって、ニーチェが「力への意志」のなかで述べていたように、「善や真が実在しないのと同じく、美も実在しない」。美とは実在的なものとの関係を中断することではじめて、われわれの精神のなかに出現する心-像なのだ。とすると、構想力(想像力)の自由な戯れとしての表象が問題になることになる。ただし、美しいと判断されるには条件があって、「おそらく悟性と結びついている」と示唆され、後述されるように、構想力の自由な戯れとしての表象が悟性と一致・調和する限りにおいてである。一致・調和が満足の感情をもたらす、あるいはその心の状態が快の感情(美しい)というわけである。
カントは第1章・美の分析論の総注において、構想力と悟性の関係について詳述している。確かに、美しいものの判断において、主役を演じているのは構想力なのだが、無際限に構想力の自由な戯れが許されるわけではない。だからといって、悟性が構想力に耐え難い強制を与えるわけではない。とはいえ、悟性が構想力に対して何らかのブレーキをかけていることは確かだろう。構想力の自由な戯れが快の感情をもたらすわけではなく、あくまでも悟性の下でである。とするなら、美しいという快の感情は、悟性の手のひらで戯れる構想力の自由にすぎないことにならないか。悟性に歯止めをかけられ、制約された構想力。悟性を逃れる構想力の自由な暴走はあるのか。それこそが崇高の問題である。と同時に、そこでは表象の危機が、限界があらわになる。したがって、カント美学とは、その背後にまわってみれば、「人間的な美」あるいは「芸術としての美」の終焉を示唆しているのではなかろうか。
注
*1:カント『判断力批判』(篠田英雄訳・岩波文庫)。以下、引用も同様。
*2:ハイデッガー『ニーチェ Ⅰ』(細谷貞雄監訳・平凡社ライブラリー)。以下、引用も同様。