輝いてた
キンと音がしそうなほど空気の硬い季節のことが嫌いだった。やけに長く、やけに暗く、生より死の方が近く感じる季節はそのやるせ無さを誤魔化すようにイベント事が多い。イベントごとに追われてバタバタとしているうちに年は明ける。
人々は奇妙な程に光を求める。理由はわかる。
日照時間が限りなく短い代わりに、硬く空気が清んで、空は高く遠くまでハッキリと見えるから、光に粒を直視できる。収縮されている様に。
始まっていくのではなく、終わっていく季節だから私はこの季節の事が嫌いだった。
長い思い出話を、少し。
去年の今頃、私は中山競馬場に立っていた。
2時間ほどずっと立っていた。待っていた。
身体の裏表にカイロを2箇所ずつ貼り、年に一回出すか出さないかの祖母から貰ったモンクレーのダウンを纏って、両手を硬く胸の前で結んだ。まるで祈るかのように。いや、実際祈っていた。
上手くゲートが出られますように、単独で逃げられますように、失速しませんように、競走中止しませんように、無事に、無事に。
人馬ともに悔いのない走りができますように。
23年の有馬記念は、タイトルホルダーの引退レースだった。私が恋をするように追いかけていた馬の引退レースだった。
なんせ初めて見た競馬の勝馬だった。
22年天皇賞・春。逃げ切り勝ち。
鞍上の横山和生騎手は高く天を指さした。
最初に覚えた競走馬は、強い逃げ馬だった。
一瞬で恋に落ちたわけではない、その時の感情が忘れられず何度も何度も検索した。
22年宝塚記念。逃げるパンサラッサを2番手から差し切り。G1連勝だった。あの時の高鳴りをなんと伝えたらいいのだろう。ワクワクのその先のどこまでも行けるような気分で、空でも飛べるみたいな心地だった。
何度でもあの4コーナーがフラッシュバックした。SNSで写真を検索し続けた。
もうその頃にはすっかりタイトルホルダーのことしか考えられなくなった。
22年凱旋門賞。前月の9月には遠征の様子が毎日のように更新された。朝霧の森を駆け抜ける姿に労働の疲れを癒した。彼の挑戦する世界に比べたら私の小さな労働環境なんてどうってことなかった。
レース当日のパリは土砂降りだった。彼はロンシャンの芝を先頭で4コーナーを回ってきた。しかし失速した。もうやめてくれとすら思った。
日本馬4頭の凱旋門大遠征は惨敗だった。
凱旋門の後、その年の有馬記念にタイトルホルダーは出走した。人気に推されていたが、期待以上に心配が勝る。嫌な予感を無視するように1人初めて中山競馬場のパドック待機をした。
勝ち馬はイクイノックスだった。その翌年、世界一位になる馬だ。タイトルホルダーは馬群に沈んだ。彼の走りができていない、満員電車にような馬場内でぎゅうぎゅうに押し潰されそうになりながら名前を叫んだ。後ろの誰かが言った。「ザマアミロ!!」ぶん殴ってやろうかと思った。できなかった。それどころではなかった。精一杯叫んだ。競馬場にいる人々は様々だが、よりによってなんで私の後ろにコイツらがいるんだ。大きい声で彼の名前を呼ぶことしかできなかった。こんな時に祈ることしかできない、無力感。彼のぬいぐるみを抱きしめながら半泣きで帰った。
次走は日経賞だった。また中山競馬場だ。距離は2500m。有馬と同じコースだった。私は仕事で、レースはちょうど休憩時間だった。大丈夫だと自身に言い聞かせながら恐る恐る発走を待った。
7馬身以上の圧勝であった。
私の不安を全部全部全部消し去るように、2月の早咲の桜を背景に、重馬場の中最初から最後まで先頭でひとつも泥を被らなかった。私は初めて感動で膝が震えた。立っていられなかった。まだまだやれるのだと見せつけるかのような走りだった。
連覇を狙った本丸の23年天皇賞春は現地の京都へ赴いた。日経賞での勝ちっぷりから当然の1番人気に推され、G1勝利の瞬間を目の前で見られるのだと浮つく思いで馬券を握りしめた。
道中、2番手から突かれかなりのペースで逃げることになったがスタミナはあるからペース自体は心配していなかった。ただどうも、どうもリズムが、合わない。合わない、おかしい、こんなところで失速する馬じゃない、おかしい!!4コーナーに入るところで競走中止。ざあっと全身の血が下る感覚がした。絶対に嫌だ命だけは、必死だった。のであまり記憶がないのだがそのあとずっと落ち込んでいた。友達と一緒に行っていたのだがあの時は取り乱してごめんね。
結果ではあるが大きな怪我などは無かった。心底安心した。そのまま春は全休。引退ではなかった。
秋はオールカマーから復帰だった。それもまた現地へ行った。今度は馬場で待機、G1ほどではないが人は多かった。結果は逃げて2着。去年であれば振り切れていただろうが、彼の走りに復調の兆しが見えた。
次走は初のジャパンカップ。一線級のメンバーの中、向いてないコース向いてない展開で5着。
もう何がなんでもという気持ちでパドックで2時間ほど立ちっぱなしで待っていた。一つでも多く、生で見たかった。彼が走りを少しずつ取り戻していっていた。
23年の有馬記念で引退だと発表された。
そういえば22年の春からタイトルホルダーのことを1度も考えない日なんて1日も無かったなあと他人事のように思った。
ゲートが開く。2時間でも3時間でもあっという間に盛大なファンファーレだ。一瞬の静寂。キリッとした空気が頬を掠める。冷たい芝は身体の芯から冷そうとしてくるが寒くなんてなかった。心地よさすらあった。惜別の思いが炎のように喉や目に存在した。心拍はギャロップのように速く、自然と浅くなる呼吸から大きく冷たい空気を吸い込み、全てを叫びに変えた。
「頑張れ!!!」
声はひび割れそうに裏返った。届いて欲しい、どうかこの思いが届いて欲しい。頑張れと叫ぶのは祈りだ。その全てが報われて欲しいという祈りだ。一馬身、二馬身、後続を離していく。タイトルホルダーは逃げた。彼の走りだ!!他の誰かが言った「タイトルの逃げだ!タイトルが走ってる!」同じ思いだった。これこそが彼の戦い方だ。これこそが彼の走りだ!やっとだ!やっと見れた!!4コーナーで後続が近づいてくる。去年はここで沈んだ。だが今回は沈まない。抜かされそうで抜かせない。そのまま先頭で直線へ入る。これがタイトルホルダーだ!みんなに教えたかったが、周りで観戦していた人々はみんな知っていた。これがタイトルの走りだって。ゴールの手前、2頭に交わされるが最後は鼻差で3着に粘った。ゴール瞬間、3着に残ったのがわかった。崩れ落ちた。この姿を私は本気でかっこいいと思って、追いかけてたんだと、きっとこの有馬を見るために追いかけてたんだと。
強い馬だった。でも順風満帆ではなかった。挫折もあった。けれど最後まで必死に走り切った。
最後の直線で、不安も無念も喪失も無力も全部持っていってくれた。今を見ろと。
彼らは私を置いていく。どんどん先へ行く。届かないところまですごいスピードで。その瞬間に、私の負に感情を洗っていくのだ。まっさらと。
引退式で山田オーナーは最後にこう言った。
「いつまでも、いつまでもこの馬の名前、忘れないでください」
その名は、タイトルホルダー。
正真正銘、私のヒーローだ。
この季節がずっと嫌いだった。硬く厳しい無彩色な金属のような季節だと思っていた。
けれど今は、23年の有馬を思い出す季節だ。
タイトルホルダーを思い出す季節だ。
あの時の頬の痛さ、吸い込む空気の冷たさを私はずっと忘れないだろう。終わっていくだけの季節はまた始まるのだ。
タイトルホルダーのことを考え続けていた時間のその全ては今になって思えば輝いている。
優しく、輝いて、私の人生に有り続ける。
今日、21世代ダービー馬シャフリヤールの引退が発表されたのだ。タイトルホルダーのクラシック世代だ。EST。エフフォーリア、シャフリヤール、タイトルホルダー。光り輝く美しい名前。
先日の24年の有馬で大外でなんと2着だ。どのくらいの偉業かは各自調べて欲しい。
ディープボンドもラストランだった。タイトルホルダーに挑み続けた馬。大好きな馬だ。
タイトルホルダーを追いかけていると枝葉のようにたくさんの馬のことを知った。そして大好きになった。そんな関係のある馬たちがやはり、有馬を堺に引退するのだ。
ふと思い出して書きたくなったのだ、思い出話を。多くの馬に心を救われてきたが
シャフリヤールのことだってディープボンドのことだってドウデュース、スターズオンアース、メロディーレーンのことだって書きたいが
やはりまずはタイトルホルダーについて書きたくなったのだ。私の光り輝く思い出を、大好きな名前を。
直接話せるわけじゃない、実際何を考えているのかもわからないけれど、勝手に救われているんだ私が。そこが、いいな、と思うのだ。
対・馬に対して限りなく一方通行なところが。
だからこそ、私を置いていってどこか遠くへ走り去って欲しいのだろう。
ただただ、輝くその姿を私は眩しいと思っていたいのだ。