『天気の子』と「正しくない」選択の話
『天気の子』の帆高の選択の正しくなさの話は、観客視点で見ていると「少女一人と東京のどちらを取るのか?」という選択になるけど、帆高は観客ではない登場人物だから、少女一人の重みは観客と全く異なると思うんですよね。
つまり、前提が異なるのに、観客視点のトロッコ問題を用いて、帆高の選択を正しい正しくないと観客が判断できるのかという点が気になっています。抽象的な「少女」ではなく、「自分が愛する恋人や家族と、その他の有象無象のどちらを選ぶか?」という問題だと、「正しい」選択をすぐに選べる人ってそんなにいるんだろうか。
「天気の巫女である陽菜さんが人柱になって、東京は晴れた。陽菜さんを救うことで、東京は水没した」という物語は、劇中だと帆高や陽菜さん、凪先輩くらいしか共有していないんですよね。あとは、帆高視点で『天気の子』を観てきた観客くらい。
彼らより大人である須賀さんや夏美さんも、甘く見積もって半信半疑じゃないかな。須賀さんにとっては、「自分は過去に恋人を救えなかったから、真正面から恋人を救おうとする帆高に、最後は心を動かされてしまった」という感じ。
それ以上に、帆高の物語を一切信じていないのは、刑事ですね。帆高の物語を鑑定が必要かもしれないと一笑に付しているし、結果的に帆高が陽菜さんを救おうとするのを邪魔する役割を担っているけど、彼らは帆高が拳銃を不法所持した家出少年だから追跡し続けている。
陽菜さんが消えてから帆高が代々木会館に向かおうとする流れは、観客に帆高の選択を「正しくない」と印象つけるための演出が多いと思うんですよ。
そりゃ、拳銃を不法所持した家出少年を追跡するのは刑事の仕事だから「正しい」し、線路の中を走る少年を見かけて声をかける工事現場の人も「正しい」。でも、それらは、帆高の物語を、帆高の選択を「正しくない」と糾弾するものではないんですよ。だって、そんな物語を信じているのは、帆高たち三人だけなんだから。
帆高の物語を共有しない人たち(刑事や工事現場の人や、線路沿いを走る帆高を揶揄する人々)からの批判を、「それでも」帆高が東京より陽菜さんを選んだ帆高の選択と繋げて考えられるのは、観客と帆高だけなんですよね。あのシーンは、そういう「正しくなさ」のすり替えの演出に思える。そのすり替えのせいで、帆高がどんな物語を持っているのか分かりつつ、帆高の行動を外部の視点で見てしまうんですよね。スペースダンディみたいな髪型の刑事の「チッ、うざっ」「面倒だな…」という苛立ちとかね。
『天気の子』小説版のあとがきで、「『君の名は。』で散々ディスられていたけど、映画は人から眉をひそめられてしまう密かな願いを書くもので、学校の教科書じゃない。僕は僕の生の実感を描くので、それで怒られるなら仕方ない」みたいなことを新海誠監督は書いていたし、インタビューでも「正しくない」選択を帆高に取らせたと語っているけれど、それを観客が鵜呑みにするのはどうなのかな?と思う。
twitterでは、フィルターバブルでクラスタ別に分かれていて、各々が独自の文脈を備えている。考えたことをそのまま呟ける手軽さもあって、文脈を全く共有しないフォロー外の人たちから頓珍漢なリプライをもらったりする。通称「クソリプ」という現象と、帆高が走るシーンって似ていると思うんですよ。だって、刑事も工事現場の人も、帆高の物語=文脈を把握していない。分かっていないのに止めようとしたり、好き勝手に色々言ってくる。クソリプのメタファーみたいなもんですよ、あれ。
①:「陽菜さんを救って、東京を水没させた」物語を持つ帆高
②:帆高の物語を共有せずに、帆高を邪魔しようとする刑事たち
③:劇中の①と②の2つをシームレスに繋げて考えられる、第三の立場としての観客
もしかすると、帆高に共感していた観客もいるかもしれないけどね。僕は、①と②の境界に配置された須賀さんに一番共感していたけど。
結局、観客である僕らの立場は、③だと思うんですよ。帆高が考えている物語がわかりつつ、代々木会館に向かうシーンで外部の視点も共有してしまう。その上で、あくまで観客の視点で「少女を選んで東京を水没させた帆高の選択は正しくない」という話をするのは、外部の視点を引きずりすぎていないか?という違和感があるんですよね。
「少女と東京のどちらを選ぶのか?」という選択ではなく、「自分が愛する恋人や家族と、その他の有象無象のどちらを選ぶか?」という選択まで自分の立場に落とし込むこと。映画館のスクリーンの前に座るのではなく、スクリーンの向こう側に立って考えること。
その上でないと、帆高の選択が正しいのか否かという話はできないと思う。
「東京を水没させないために、お前が消えてくれ」なんてことを、俺は恋人に言えないですよ。それなら、俺が消える方がマシだ。
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