『マトリックス・レザレクションズ』の感想

『マトリックス・レザレクションズ』を観てきたけど、『マトリックス』一作目の次に面白かったです。

 前作『マトリックス・レボリューションズ』で死亡した主人公のネオが機械によって蘇生させられて、ネオとしての記憶を自作のゲームのストーリーと思わされて、世界的なゲームデザイナーのトーマス・A・アンダーソンとしてマトリックス上で生活させられている…という始まりが面白い。

「もしも、『マトリックス』一作目でネオが青いピルを選択したら、こうなったんじゃないか…」と思ってしまうストーリーの始まり方で、それは多くの『マトリックス』上映当時の観客の、現在の生活でもあるんですよね。

 別に自分は救世主でもないしヒーローでも魔法少女でも正義の味方でもないし、マトリックス上で単調な仕事をこなして死ぬまで生活を続けるしかない。たまに空想と現実の区別がつかなくなったら、カウンセリングにかかって青いピルを飲んで現実に適合し、そして会社の会議に出る。
 それはネオだけでなくトリニティーも同じで、彼女も「ティファニー」という偽名で偽物の夫と子供達と生活し、現実に適合している。劇中の描写を見る限り、彼女は夫との生活にそこまで大きな問題も抱えておらず、子供達を愛している。けれども、「ティファニー」もトリニティーとしての記憶を持っていて、「(トーマスが制作したゲームの)『マトリックス』のトリニティーを見て、彼女は私みたいと言ったら夫に笑われて彼を殴りたくなった」と喫茶店でトーマスに告白する。

 今作のキアヌとキャリーの年のとり方の違いも、すごく良い。キアヌの見た目はほとんど変化がないんですよ。そんなに顔に皺もないし、髭を剃って長髪を切ったら、二十年前とそこまで違いはないだろう。Twitterによくいる、見た目が若いままのおじさんみたいなんですよね。それは独身のままゲームデザイナーとして生活し、若手と『マトリックス』の続編について会議をする、劇中のトーマスの役とも符号している。
 その反面、キャリーの顔には皺もあり美しく年を重ねていて、家族と生活すること自体に特に悩んでいるわけではなく、むしろ成熟して幸せそうに見える。「あの頃には戻れない」という説得力が、キャリーの見た目の変化に表れているんです。

『マトリックス』から『マトリックス・レボリューションズ』までと比較すると、今作はとても個人的な思いで制作されているように見える。基本的に前作までは、「自分が現実だと思っていたものが、実は機械によって作られた仮想現実だった。ネオは救世主として現実に帰還して、人間と機械の最終決戦が始まる…」みたいな話じゃないですか。話のスケールが人間vs機械なんですよ。それに比べて、今作でもネオが赤いピルを飲んで現実に帰還するけれども、物語を進める動機は人間vs機械ではなく、同じく仮想現実に囚われている(前作で死亡した)トリニティーを復活させることでしょう。

 これは見方によっては、とても情けない物語なんです。だって、トリニティーは夫と子供に囲まれて幸せに暮らしていて、(マトリックス上ではゲームとされている)前作までの記憶を頼りにトリニティーを引き離そうとする独身中年ゲームデザイナーでしょう?
 人間vs機械みたいな壮大な話ではなくて、「巨大なBSS中年の神話」とかそういうスケールじゃないですか。「僕が先に(マトリックスでトリニティーを)好きだったのに」という風に解釈できてしまうし、劇中に登場したカウンセラーにその動機を話したら、冷めた目つきで青いピルを増やされそうなんです。

 こういう話はネオ視点のみだとバランス調整が難しい。結果的に「巨大なBSS中年の神話」の作品にならなかったのは、トリニティーも家族との生活に満足しつつも前作までの記憶を大切にしていて、なおかつ今作で最も重要な終盤の選択を彼女が担当したからだと思います。
『マトリックス』一作目で、「自分が現実だと感じていたものは仮想現実であり、機械との最終戦争のために赤いピルを選択した」のはネオだったけど、今作のトリニティーの方が選択が重いですよ。だって、独身のネオと違って愛する夫と子供たちがいるんだもの。

「家族を捨てて現実にネオと帰還するか、それともネオを捨てて今まで通り家族と仮想現実の中で幸せに過ごすか」の選択をネオがトリニティーに突きつけた時に、最早、インターネット上で陰謀論的な解釈をされるようになった「赤いピル/青いピル」というガジェットは使われない。それは、今作での選択が人類vs機械という壮大なストーリーに繋がるのではなく、トリニティーの個人的な領域と接続しているからだと思う。
 それを中年の危機と言い換えてもいいのかもしれない。「確かに私には愛する夫と子供たちがいる。生活にそこまで不満があるわけでもない。しかし、この記憶を忘れていいんだろうか…」という。最初、ネオからの選択に対して家族たちを選んだトリニティーが、その後考えた末に「私をティファニーと呼ぶな!!」と家族を捨てる展開になる。そのセリフでも映像でも表現されない空白の中に、トリニティーだけの葛藤が、仮想現実での人生が詰まっているんです。観客にすら公開しない、個人的な表現として空白にしたのが見事だと思う。
 そうじゃないと、「ゲームの『マトリックス』は本当の世界で、あなたは本物のトリニティーなんだ!だから、家族を捨てて一緒に現実(『マトリックス』)の世界に行こう!」というネオからの不条理すぎる選択にイエスと答えないでしょう。一笑に伏すでしょう、そんな選択肢。絶対、「記憶の中の元彼に誘われたから、家族を捨てて元彼を選ぶ」みたいな、元彼側に都合の良い心理でネオを選ばないよ。

 戻ってきた現実世界でネオ達が乗る船に「ムネモシュネー号」という、古代ギリシャの記憶の女神の名前を使ったことが象徴しているように、今作は個人の記憶が重要な扱いになっている。年をとったネオは自分の生活に満足しているように見えず、トリニティーは満足しているように見える。けれども、二人ともその記憶に従って「本当にこのままでよいんだろうか…」という悩みはある。異なる生活をしている中年にも、同じ悩みがある点がとても良かったです。夫も子供達もいて、日々満足に生活しているように見える女性だって、内面でどのような悩みを抱えているのか分からないし、むしろ今作ではネオよりもトリニティーの選択に重きを置いていた。
 だから、今作では二人で手をつないでビルから飛び降りるのに、トリニティー側が先に覚醒して空を飛べるんですよ。「スウォーム」によって機械に操られ、人間爆弾としてビルから降り注ぐマトリックス内の住民たちと対照的に。

 個人的に、『マトリックス』一作目は好きだけど、二作目と三作目はあまり好きではないんです。ネオが救世主として周囲の人間たちから期待されるのも、ちょっと文化が違うなーと感じていた。でも、四作目で話のスケールを「本当にこのままでよいんだろうか…」という中年なら誰でも持ちそうな悩みに縮小したことで、物語としては三作目までよりも受け入れやすくなりましたね。前作までの様々なキャラクター達と再会する「高校の二つ隣のクラスの同窓会に参加したような居心地の悪さ」の中盤の展開の居心地の悪さや、「『マトリックス』と言えば、バレット・タイムだろ??」という楽屋落ちのような展開はそこまで好きでもなかったけどさ。
 ネオの「巨大なBSS中年の神話」と、トリニティーが家族を捨てる選択描写の繊細な手付き。この二点だけでも、僕は『マトリックス・レザレクションズ』が結構好きです。

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