父が遺した日記とメモ
小学校時代の同級生らとLINEでやりとりしてたら、いつ頃、何きっかけで繋がったんやったっけ?…という話になりボンヤリした頭の薄い記憶を辿ったらmixiだった。で、久しぶりにmixiの日記を漁ってたら父が遺した日記やメモを紹介した事を思い出した。
10年という区切りもあり、今年の終戦記念日に向けてnoteに残します。
追記
日記の内容には悲惨な表現も含まれます。気分を害されたらごめんなさい。
ちなみに父は昭和3年生まれで82歳で逝去しました。
生前、戦争体験は殆ど話してくれませんでした。それだけ戦争の悲惨な体験は深く心に傷を残していたのだと思います。それでも地元紙に投稿したのは自分なりに戦争の記憶を残そうとの考えだったと思います。
2010年08月10日のmixiの日記から
今年、4月28日に父が逝去。遺品整理の最中に見つけた新聞記事やパソコンに残していたメモを転載。
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まもなく8月15日、終戦65年を迎える。
その戦争の悲惨さを語り継ぐ者として、 先日、逝去した父が残したメモから戦争関係のものを紹介します。
2002年8月22日(木)付
地元の新聞に投稿し掲載された父の手記から。
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8月15日、57回目の終戦記念日
戦争 私の思い
ーーーー読者の手記から(12)
陸軍航空通信学校で空襲
〜17歳の走り書き〜
昭和二十年五月十三日、陸軍航空通信学校菊池教育隊、朝の点呼では阿蘇の白煙もよく見えて快晴だった。
朝食もようやく終わろうとした時、朝の空気を切り裂くように空襲ラッパが鳴り響いた。同時に地鳴りのような爆音が部屋を揺さぶった。グラマン戦闘機の大群が、わがもの顔に兵舎の上を乱舞している。初めて見た敵機に緊張したが、割に冷静だった。戦友達と近くのクヌギ林に避難した。そこで偶然、一人用のタコツボ壕(ごう)を見つけ、中で一息ついていると人の気配がして、「おれの壕だ。出ろっ!」。襟元を見れば軍曹殿。二つ星の候補生では抵抗できない。はい出して、木の下に身を寄せて状況を見守った。
攻撃目標は飛行場で、積まれた大量のドラム缶の燃料が大黒煙を上げて燃えている。時々、ドラム缶が空高く舞い上がり、爆発音が響いてきた。
一方、南の健軍飛行場の上空は真っ黒い弾幕で覆われ、その中に突っ込んだ飛行機は火の玉になって落ちていった。
こうして初めての空襲は、対岸の火事とも言えそうな中に終わった。
身近に犠牲者もなく、ほっとしながら昼食を取っていると、またも急を告げる空襲ラッパが鳴った・。「今度はこっちかも・・・」とチラッと考え、「最後の飯になるかもしれん」と、食べかけの飯に茶をかけ、慌てて流し込んだ。大急ぎで階段を飛んで下ると、十人ばかりセメントの土間に頭を出口に向けてメザシのように伏せている。その間にむりやり割り込んで目、耳、鼻を指で押さえて伏せた。爆風で壁の黒板が落ちてきた。「ここからどう逃げるか」自問した時、候補生が己の名前を呼びながら飛び出した。続いて二人目、三人目と順々に飛び出し、ついに順番がきた。「安田いくッ」声より先に体が走った。兵舎から数歩出たところで足がすくんだ。足元に頭が割れて脳が流れ出た候補生がうつ伏せに倒れていた。一瞬ためらったが、思い切って飛び越えた。目の前に防空壕が見えたので転がるように飛び込んだ。誰も無言で、負傷者のうめき声だけが重く聞こえた。間断なく銃撃は続き、そのたびに土砂が流れ落ちた。
突然、兵が飛び込んできた。「伝令。中隊前の防空壕が生き埋めになった。応援頼む!」と。歳原小隊長が「誰がけがしてない者はおらんか!」皆、沈黙したままだった。小隊長がいきなり「安田、ツイテコイ」とおれを名指して飛び出した。いやとは言えず、胸のお守りを握り締めて後に続いた。頭の中は空っぽで懸命に走った。壕はそう遠くないのに遠かった。二日前、安全のため土砂で覆った壕は陥没していた。夢中で地面にはったまま、鉄兜(てつかぶと)で土砂をかき出すがはかどらず、砲弾がだんだん近づくように感じて避難場所を考えた。
ふと道路越しに地下壕の扉らしきものが見えた。誰にも声を掛けず一人で走った。確かに地下壕で頑丈な造りだった。体当たりで押し込んで、わずかなすきに身体をねじ込んだ。正面に写真らしいものがあった。さらに近づくと天皇、皇后の写真・・・。つまりここは地下式の奉安殿(ほうあんでん)と知った。大変なことをしたと後悔したが、「殴られても殺されることはない。死ぬよりましじゃ」、そう思うと気が楽になった。別に三人入ってきたが、離れて腰を下ろし、黙ったまま時の過ぎるのをじっと待っていた。
空襲も治まり扉を押し開けると辺りは硝煙(しょうえん)がキリのように立ち込めて鼻を突き、死体が散乱し、地獄のようであった。班に戻る途中、上官とすれ違っても敬礼もせず、上官もとがめることもなく去って行った。班では人員点呼をしていた。不意に「安田、生きちょったか!」、山田が飛んできて肩をたたいた。「奉安殿に避難していた」とは言えなかった。
兵舎に戻ると柱には無数の爆弾の破片が突き刺さり、寝台の毛布には窓ガラスの破片が散っていた。その夜は一キロほど行軍して民家に宿泊し、死んだように眠った。
この日の空襲で三十八人が戦死したが、そのほとんどは十七、十八歳の少年兵だった。
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この話は、父が生前、三度ほど話してくれた記憶がある。この時は、話の内容はなんとなく理解でき、戦争の悲惨さは自分ながらに感じ取っていた。
しかし、新聞に掲載されたこの手記を読んだ時、当時の父は17歳の少年だった事を思い直した。その瞬間、背筋が凍った事を憶えている。
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父が残した「手記・メモから」(2) 長崎原爆投下
8月9日。5月の空襲で兵舎が破壊された後、中林国民学校に駐屯した。
天候快晴で校庭のセンダンの木陰で通信演習。無性にセミが喧しかった。一人づつ受信して交代して自分の番になったが、先任の受信表を見ると、電文はみな同じだ。そう思った瞬間、なにもためらわず、いきなりダイアルを無線から有線(ラジオ)に切り替えた。
とたん「長崎地区! 長崎地区! 新型爆弾投下! 新型爆弾投下! 全員退避、全員退避して下さい!」と、アナウンサーの絶叫する声が飛び込んできたが、そこで放送は途切れた。
内密に聞いたニュースだから報告するわけにもいかず、父親が日赤長崎支部長として赴任したと話した町田にだけ伝えた。彼は黙ったまま何も応えなかった。
時間は11時が過ぎたばかりだった。
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父が残した手記・メモ(3) 「慰問」
重い内容の話が続いたので、ちょっと軽いものを
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「慰問」
4月×日。熊本県鹿本郡田底村の温泉旅館。菊池陸軍病院の分院である。
夕食が済んでノンビリしていたら、「安田候補生に面会人」。一階から大声で伝わってきた。急いで玄関へ出てみて、腰を抜かさんばかりに驚いた。小学生達が母親や姉さんたちと広い玄関いっぱいに詰めかけていた。しかもめいめい重箱を重そうに抱いたりして、ニコニコしながら私を待っていた。
前日、小学生たちに軍歌を教えた際に「兵隊さんは、今何が食べたいか」と尋ねられて、「ダゴ!」と答えた事を思い出した。“3,4つも食べられたら本望”と内心儚い夢を浮かべていたのに、目の前にはダゴどころか、大勢の人たちが料理を提げて来ている。
とっさに閃いた。「村民が大勢、慰問に来ました!」。
分院長は「よーし、全員で慰労会をやる。広間に集合せよ!」。
心配も何処かへ吹き飛んで、久し振りによく食べ、歌い踊った。演芸好きの大阪出身の古参上等兵は、“愛染かつら”を見事に踊って、大喝采だった。
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亡き父が残した手記・メモから(4)
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岡崎兵長」
3月×日。風邪をこじらせて、教育隊の医務室に一人で寝ていたら、扉を開けて兵長が入ってきた。目で黙礼したら、枕元に来て突然、「あんた安田じゃがネー」。延岡弁である。「公ちゃん知つちょるじゃろ。山口の公ちゃんよ」。公ちゃんは延岡小学校1年生から6年生までの同級生で、紺屋町の自宅には時々御邪魔した。
「公ちゃんは去年、台湾沖航空戦で戦死したよ」思いがけない知らせに驚きながら、兵長の角張った顔を見れば、我が家の前を通って通学していた延岡小学校一年先輩でああった。どうして俺がここで休んでいる事を知り、公ちゃんの戦死を伝えに来てくれたのか。同じ郷土人の懐かしさゆえかと考えた。
驚いて返事もせずにいると、そのまま出て行った。胸に岡崎の姓がが縫い付けてあった。
2ヶ月後の5月13日。空襲が去り兵舎に戻った時、安東候補生が「炊事場の近くに爆弾が落ち、岡崎兵長が右腕を切断された。自決すると狂乱状態になっているのを押しとどめた。腕を探していたら側溝で拾った」と話してくれた。
その後、岡崎兵長がどうなったか。復員後、家のあった紺屋町や博労町を尋ねたが、解らずじまいだった。
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父の手記・メモ(5)「スパイ連行」
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「スパイ連行」
6月×日。中林の国民学校から高江へ食料受領に行った帰り、大八車を押して、宮崎の「幌馬車」の鼻歌を聴きながら、学校近くの坂にかかると、着物を着た青白い顔の大人が学校を見ながら立っていた。
「怪しいぞ」「スパイかもしれん」。誰もが言うともなしに両腕を抱えて学校に連行した。
後を追うように赤ん坊を背にした婦人が狂ったように飛び込んできて叫んだ。
「私の主人です。満州に居ましたが、肺病で帰ってきたのです。休み休みでないと歩けないのです」。
スパイでなく、重病人だった。
みんなまだ17歳の少年だった。
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父の手記・メモ(6)「なぜ特幹を希望したか」
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「なぜ特幹を希望したか」
中学2年の時、「幼年学校」、4年の時、「陸軍経理学校」、それに「陸士」と受験したけれど、生来の色弱が災いして全部パー。自分より出来の悪い奴が、どんどん陸士や海兵にパスするのを聞いては、随分親を恨みました。ところが19年、「特幹」の航空通信は色弱でもOKと知ってすぐに応募した。
※おそらくこれが父が書き残したラストの手記・メモです。
今回、いくつものNHKの番組を見ながら、今回の父の手記・メモを読み併せた。当時の子供達は「優秀な軍人になり、前線で戦う」事が最大の目標だったようだ。もちろん、そういう流れを作ったのは当時の軍部国家だ。歴史を遡るとコレは根が深い。(この件は、いずれまた書いてみようと思う)
私の父は夭折した長男・周作を入れて9人兄弟。6歳上の(次男)は将校だった(私が子供の頃、可愛がってくれた叔父。当時、この叔父と祖父と父で証券会社を経営してた)、2歳上の兄(三男)は、外地で戦死した。
幸いにも、父は徴兵では低いランク(徴兵で甲乙丙丁の4ランク)であったため徴兵が遅れ、戦線に出ることなく終戦を迎えた。僅かの年齢の差や徴兵のタイミングが生死を分けていた。
※校名は引用を付けようと思ったが、各自でwiki読んでみてください。
写真は、父が大好きだった「月下美人」。サボテン科らしい。
一つの鉢に100個近く花が咲いたこともあった。これも地元の新聞社が取材に来たそうだ。
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