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カランポーの羊雲

「先生!まみやちゃんがまた逃げようとしてます!」
その一声に、私は思わず固まった。畜生、見つかった。

 担任がこちらを振り向く。彼女の次の言葉を待つことなく、私は全力で駆け出した。
「鈴木さん!待ちなさい!!」
背後から怒鳴り声と激しい足音が追いかけてくる。本気で怒った大人は、小学四年生の私よりもはるかに強く、足も速い。私は走るスピードを上げた。捕まったら絶対に逃げ切れない。
 距離を稼ぐため、階段の一番上から思い切りジャンプして飛び降りた。踊り場で壁に激突する。それでも私は走り続けた。誰もいない体育館から裏庭に出て、ドアを閉め、楓の木の影に隠れる。5分ほどそこで息を潜めていたが、担任は探しに来なかった。どうやら無事に逃げ切ったらしい。私はふぅーっと大きく息をつき、縮めていた両脚を草の上に投げ出した。

 ここはどこにでもある普通の小学校だ。私は監禁されているわけでもなんでもない。ただ授業が嫌でたまらないから、脱走してきたというだけだ。こんなことが週に2、3回、しかも数ヶ月ほど続いているので、先生方には影で「問題児」と呼ばれている。
 担任の先生からは「どうして逃げるの!」とたまに言われる。その度に私は「お前が嫌いだからだよ!クソババア!」と答えている。とても悪い言葉だ。自分の口から出ているなんて信じられない。

 どうしてこうなってしまったのか、正直言って自分でもよく分からない。私は確かに担任が嫌いだが、それは授業から逃げていい理由にはならない。たぶん小学3年生の自分なら、どんなに嫌でも、ちゃんと我慢できていたのだと思う。
 今年の春までは真面目な小学生だったのに、4年生になった途端、たがが外れたように全てがおかしくなってしまった。理由は自分でもよくわからない。そのころに何があったのか、少しだけ思い返してみることにした。

✳︎

「お母さん、入院することになったから。」
春休みのある日、父からそう言われた。姉、私そして弟の3人は、それを聞いてひどく戸惑った。
「お母さん病気なの?」
「何の病気なの?」
「ガンなの?」
3人きょうだいが一気に話しかけたので、父は少し困っているようだった。
「ガンではないよ。でも難しい病気で、お医者さんにもよく分からないみたいだ。もしかすると長くかかるかも知れない。」
それで、母が帰ってくるまで親子4人で力を合わせて頑張ろうということになった。あれから数ヶ月たつが、母はまだ退院していない。
 しかし正直に言うと、私は母のことがそんなに好きではない。ふだんから姉と弟ばかり可愛がっている人だから、いなくなっても別にさびしくはない。
 それよりもショックだったのは、大好きだった担任の先生が新しい人に変わってしまったことだ。春にやって来た若い女の人は、良い先生だとみんなに評判だったけれど、私のことを子供扱いするのでどうしても好きになれなかった。その日の帰り道、友達に「あの人嫌い」と言ってみたら、「え?なんで?」と言われてしまった。私と同じ気持ちの人は、誰もいないみたいだった。

 最近は、家に帰るたびに姉から怒られる。「あんたまた授業から逃げたの。バカじゃないの。恥ずかしいからやめて。」私がうつむいてこぶしを握りしめている間、弟は隣でアニメを観てゲラゲラ笑っている。うるさいのでゲンコツで脳天をぶんなぐると、大きな声を上げて泣き出した。
「ちょっと!何してんのあんた!」
「だまれ!みんな死ね!」
クッションをけとばして、部屋にかけ込む。心臓がバクバクする。
 ベッドの中で、大好きな本を開く。シートン動物記の「オオカミ王ロボ」。私の心はアメリカのカランポー平原に飛ぶ。どこかでオオカミの遠吠えが聞こえる。ロボが仲間を引き連れてやって来たのだ。羊の群れに突進するオオカミたち。殺戮が始まった。人間は怒り、オオカミを殺すためにたくさんのわなや毒を仕掛けるけれど、賢いロボには全部お見通しだ。力と知恵を武器に生きる、誇り高きカランポーのオオカミ王。
 私も連れて行ってと、大声でさけぶ。オオカミのように自由に生きたい。ロボの後ろを追いかける。しかし走っても走っても、オオカミたちは遠ざかっていくばかりだった。この体が弱すぎるせいだ。どうして私は人間の、それも女なんかに生まれてきてしまったんだろう。
 ああ、寒い。肩が痛い。

 そこで目が覚めた。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。寒いのは体が冷えたせいで、肩が痛いのはさっき踊り場で壁にぶつけたせいだった。嫌なことは全部現実なんだと思うと、どうしようもなく悲しくなった。どうせ夢を見るなら、弟が好きなアニメみたいに、都合の良い嘘だけを見せてくれたら良かったのに。

 そのとき、後ろから腕をつかまれた。よりによって、肩に怪我をした方の腕である。「痛い!」と叫んで振り向くと、そこに担任が立っていた。
「こんなところにいたの!上着も着ないで!」
「うるせえ!」
「何もうるさくない!行くよ!」
抵抗もむなしく、あっさりと学校に連れ戻されてしまった。連れていかれる途中、大人の力にはやっぱり敵わないなと、他人事のように考えていた。

✳︎

 「どこか怪我はないか」と聞かれたので、「肩が痛い」と正直に言うと、保健室へまっすぐ連れて行かれた。肩に湿布を貼られ、ついでに体温も測定された。
「7度8分あります。早退させたほうがいいかもしれませんね。」
「そうですか……ずっと半袖で外にいたみたいなので、もしかすると風邪を引いたのかもしれません。」
「あら、それは大変。」
「お父さんに迎えに来てもらうことにしましょうか。」
私そっちのけで話がどんどん進んでいく。少しは私の意見も聞いてくれたらいいのに。
「いいです。1人で帰れます。」
私が突然口をはさむと、先生2人がぎょっとした顔でふりむいた。「それはダメ」と口々に言いながら、必死に私を説得しようとする。
 しかし、ここだけは絶対にゆずれなかった。「父は仕事が忙しいので」、「家まで歩いて5分なので」と何回も繰り返していたら、保健室の先生が「じゃあそうしなさい」と投げやりに答えた。私はひとりの時間を勝ち取ったのだ。

 教室に戻って、ランドセルに教科書をつめた。クラスメイトの1人が「まみや帰るの?いいなー!」と言ってきたので、笑顔でピースをしてみせた。
 1階に降りてみると、玄関のところに担任が立っていた。「鈴木さん大丈夫?さっきより顔色が悪いみたい。」と、おでこに手を当ててくる。先生のくせに母親みたいなことを言う人だなと思った。
「大丈夫です。帰れます。」
それだけ言って帰ろうとしたら、「ちょっと待ちなさい」と引き止められた。
「鈴木さん聞いて。普通はね、こういう状態の子供をひとりで帰らせるようなことは、絶対にありえないの。」
「そうなんですか。」
「そうなんです。ここが平和な田舎町で、あなたがとても頭のいい、話せばちゃんと分かってくれる子だから。これは本当に特別な対応なんだよ。」
そんなことを言うために、この人はわざわざ、ここで私を待っていたのだろうか。
「鈴木さんは嫌がるかもしれないけど、私は本当に心配なの。本音を言えば、あなたをひとりで帰らせるのには反対です。でも、もう決まってしまったことだから、その通りにするしかない。だからせめて、あなたを校門まで送らせてもらいます。私は教師として、生徒の無事を守る義務がある。いいですね?」
担任はとても真剣な表情をしていた。大人がこういう顔をしている時は、逆らわないほうが身のためだ。私はうなずき、担任はそれを見て嬉しそうに笑った。
「やっぱり鈴木さんは、話せば分かってくれる子なんだね。」
そう言って、私の手を引いて歩き出した。その手の温度を、心の底から「うざい」と感じた。

 しばらく歩くと、校門のところに、カラハナソウの雌花が咲いているのが見えた。
「ホップが生えてる。」
私のひとりごとを、担任が聞きつけた。
「ホップ?ビールに入ってる、あの?」
「はい。あのつる草、カラハナソウと言います。ホップに近い仲間の植物です。こんなところに生えてるなんて知りませんでした。」
「へえ、詳しいね。植物が好きなの?」
「植物も好きですが、動物はもっと好きです。」
「そうなんだ!どんな動物が好きなの?」

——うるせえ調子に乗んな。さっさと私を帰らせろ。

「すみません、もう帰ってもいいですか。」
担任は一瞬だけキョトンとしたあと、とても気まずそうな顔をした。
「あっ……そうだったね。帰らないとね。」
そして私は、やっとのことで解放された。

 家に着いてから体温を測ってみると、6度5分まで下がっていた。どうやら風邪ではなかったらしい。しかし、本を読んだり遊んだりするような気分にはなれなかった。
 熱が出たから家に帰るだけなのに、親がどうとか教師がどうとか、いちいち面倒くさくて息がつまりそうだ。こんな自由のない生活から、一刻も早く抜け出したい。そういう気持ちが頭の中でドロドロに溶けていき、ある瞬間にポロッと口をついて出た。
「死ね。」
そして私は自分の部屋にもどり、ランドセルから30センチ定規を取り出した。右手に固く握りしめて、頭の上まで大きく振りかぶる。
「死ね!」
自分の左腕を定規でなぐりつけた。バシーンと大きな音がしたけれど、なぜかそれほど痛くはなかった。
「死ね!死ね!死ね!」
何度もくり返すうちに、左腕がどんどん真っ赤にはれあがっていった。見た目はとても痛そうなのに、やっぱり全然痛くなかった。
 本当は分かっている。私は誰かに死んでほしいと思っているわけじゃない。本当に死ねばいいのは、ルールを守らずにみんなに迷惑をかけている私のほうだ。
「おまえなんて、死んでしまえ!」
壁にガツンと頭をぶつけてみたら、今度こそ物凄く痛かった。布団に潜って、痛い痛いと1人で泣いているうちに、いつのまにか眠ってしまっていた。

 目を覚ますと、外は夕方になっていた。床に落ちた定規を拾って、お気に入りの黄色い定規袋にきちんとしまう。私が1年生のころ、母が手作りしてくれたものだ。夜勤明けで疲れていたのに、私へのプレゼントだと言って、一生懸命作ってくれた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
寒くもないのに、体がブルブル震えた。私は頭がおかしくなってしまったんだろうか。いや、きっと生まれつき頭がおかしいんだろう。きっとそうだ。そうに違いない。

 姉と弟の話し声がリビングのほうから聞こえてきた。いつのまにか帰ってきていたらしい。アニメのオープニングテーマと、楽しそうな笑い声。うるさい。うるさい。聞いているだけでイライラが止まらなかった。
 布団を頭からかぶり、耳を塞いだ。そのまま目を閉じてみたけれど、耳に当てた手が邪魔でどうしても眠れなかった。仕事から帰ってきた父が「ご飯だよ」と布団をはがしに来るまで、そのままの格好でひたすら耐え続けていた。

✳︎

 次の日から、しばらく学校に行かなくていいことになった。父には「少し家でゆっくりしていなさい」とだけ言われた。たぶん、定規でなぐった左腕が紫色に変色していたからだと思う。

 でも、そんなことはどうでもよかった。病気でもないのに学校を休んでも良いなんて、こんなにうれしいことはない。私は庭で虫たちを眺めることにした。ミントの葉を食べるコガネムシ、フェンネルについたキアゲハの幼虫。畑の土を掘ってみると、ミミズやヨトウムシがどっさり採れた。ビニール袋に集めて、ニワトリたちのエサにする。少し可哀想だけど、おいしい卵を産んでもらうためだ。
 そうしている間、私はとても幸せだった。ここには、虫を見て「気持ち悪い」という人も、虫を手づかみする私を「変人だ」とからかう人もいない。好きでもないアニメやマンガの話題に無理に合わせる必要もない。退屈な授業もないし、お母さんの掃除機の音も聞こえない。自由って気持ちいいなあ。気づかないうちに、私は鼻歌を歌っていた。

 ニワトリの好きなハコベの花をつんでいたとき、目の前をトンボが通り過ぎていった。釣られて空を見上げると、すごい数の羊雲が出ていた。青空を端から端までうめつくす、真っ白な羊たちの群れ。
 その時、山のほうから灰色の千切れ雲が流れてきた。まるで羊を追いかけているオオカミみたいだ。オオカミ王ロボの羊狩りを思い出して、私はなんだか嬉しくなった。

 その時、玄関に知らない車が止まり、中から担任が降りてきた。
「鈴木さん、元気そうだね。」
正直言って、あまり会いたくない人である。「学校はどうしたんですか」と聞いてみると、担任は「昼休みだから、プリントを届けにきたの」と答えた。そういえば、さっき小学校のほうからお昼のチャイムが聞こえてきた気がする。
「これは学級通信と、運動会のおしらせ。お父さんに必ず渡してください。」
「はい。」
担任は私の返事を聞いてうなずいたあと、私が持っているハコベの束に目を止めた。
「あら、お花をつんでたの?かわいいね!」
「……」
「お部屋にかざるの?」
「ちがう。ニワトリのエサ。」
「ニワトリがいるの?珍しいね、どこにいるの?」
私はその質問に答えたくなかった。せっかくひとりで楽しく過ごしていたのに、この人のせいでぜんぶ台無しだ。用が済んだらさっさと帰ればいいのに。
 文句を言ってやりたかったけれど、口を開くと悪い言葉が出てしまいそうだった。何も言えずにしばらくだまっていると、担任は深くため息をついた。
「そうやってあなたは、いつも自分のカラに閉じこもってしまう。心を開いてくれないのね。」
邪魔してきたのはそっちなのに、まるで私のほうが悪いようなことを言う。腹が立って、つい口答えをしてしまった。
「意味がわかりません。」
「またそんなことを言う。本当は分かっているんでしょう?私に心を開かなくてもいいから、ご家族にはちゃんと話をしなさい。みんな本当に心配しているんだから。」
 その言葉を聞いたとたん、我慢していた言葉が口から一気にあふれ出してきた。
 
「ご家族?仕事でせいいっぱいの父ですか?入院中の母ですか?私をバカにしている姉ですか?それともアニメにしか興味ない弟ですか?心配してるなんて嘘ばっかり、結局は誰も助けてくれないじゃないですか。教師のくせにそんなこともわからないんですか。先生のそういうところが大嫌いなんです。いますぐ帰って。……さっさと帰れ!」

 言い終わったあと、自分でも「しまった」と思った。いま、絶対に言ってはいけないことを、勢いにまかせて言ってしまったような気がする。
 担任は見たこともない顔をしていた。目を見開き、金魚のように口をぱくぱくさせている。最初はものすごく怒っているのかと思ったけれど、どうもそうではないらしい。みるみる悲しそうな顔に変わっていったかと思うと、最後に聞き取れないほど小さな声でこう言った。
「ごめんなさいね。私はただ、あなたがホップの話をしてくれたのが嬉しかっただけなの。」
そして担任は、何も言わずに車に乗って帰っていった。たぶん、泣いていたんだと思う。

 初めて言いたいことをはっきり言えたはずなのに、なぜかとても気分が悪かった。私はあの人に何を言われても我慢していたのに、あの人は一度言い返されただけで怒ったり泣いたり……そんなの、大人のすることじゃない。
 でも、物事には言っていいことと悪いことがある。「教師のくせに」というのは、先生に対して言っていい言葉ではない。「大嫌い」も「さっさと帰れ」も、自分のことを心配して様子を見にきてくれた人に対して、とても失礼な言葉だと思う。
 そんな簡単なこともわからず、他人に平気でひどいことを言える私は、やっぱりまだまだ子供なんだなぁと思った。子供は子供らしく、大人の言うことをだまって聞いておけということなのかもしれない。そう思うと、担任にひたすら反抗していた自分がバカみたいに思えた。
 いや、バカなのは最初からわかっていたことだ。ただ、誰かに自分の意見を聞いてほしかっただけなのに。そういう気持ちも、私が子供だからこその感情なのだろうか。考えても考えても、全然わからなかった。

 考え事をしているうちに、せっかくの新鮮なハコベがしおれてしまった。それでも、ニワトリたちはおいしそうに食べてくれたので安心した。その姿を見ていたら自分もお腹が空いてきたので、私もお昼ごはんを食べることにした。家の中にもどり、キッチンで何か食べられるものを探していたとき、父から電話がかかってきた。
「真実耶、今夜は仕事が早く終わることになったから、お母さんのお見舞いに行こう。」
とてもうれしそうな声だった。誰よりもお母さんに会いたいと思っているのは、きっとこの人なんだろう。「私は別に会いたくない」なんて、間違っても言わないほうがよさそうだ。
「わかった。」
「うん、5時半には出かけるから、お姉ちゃんたちにも伝えておいて。お願いな。」
「はい。」
「病院のあとは、真実耶の好きなお寿司を食べに行こう。じゃ。」
はいとかいいえとか言う前に、電話は向こうから一方的に切れた。お寿司なんてどうでもいいし、姉や弟とは話したくないけど、多分それも言わない方がいいことなのだろう。ファックスの紙を1枚取り、「5時半からお母さんのおみまい byお父さん」とメモして、テレビの前に置いておいた。さっき担任からもらったプリントも隣に並べておいた。帰ってきたら勝手に見ればいい。

 戸棚にあった桃の缶詰を食べながら、また空を見上げた。羊雲はまだそこにあったけれど、オオカミの雲はどこにも見えなかった。多分、風で流されてしまったのだろう。
 長年に渡ってカランポーに君臨し続けたオオカミ王は、最後にシートンとの知恵比べに負け、犬みたいに繋がれたまま、ひとりぼっちで死んでしまう。結局、世界でいちばん自由なのは人間なのかもしれない。

「私もいつかは自由になれるのかな。」
オオカミの消えた空をカーテンでふさいで、私は大きくため息をついた。オオカミの消えた空をカーテンでふさいで、私は大きくため息をついた。
(了)