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ラプラスの天使

1 ラプラスの悪魔
 表題を見て、ラプラスといえば悪魔ではないかと思った人も多いかもしれないが、俗にいう“ラプラスの悪魔”とは、18世紀のフランスの数学者であり天文学者でもあるシモン・ラプラスが、当時流行していた“ある時点の因果によって未来は決定づけられている”という「未来決定論」を説明するために仮定的に存在させた“全宇宙の全情報を把握し得る超絶知性”のことである。
 “ラプラス”という響きが気に入られたのか、ポケモンの名前や小説、ドラマなどに頻出するため、私も最近まで神話的なものの登場人物かと思っていたが、実際には普通に人名であった。また、ラプラス本人はこの仮定上の存在を“知性”と呼ぶだけで、決して“悪魔”と名付けていない。
 未来決定論では、情報が揃えば未来を計算で予測できるとされる。だが、未来を予言された人がそれを回避しようとしたとしても結局予言通りになるなら、人の望みや努力は無意味になる。このような虚無的な見解が、ラプラスの知性を“悪魔”と解釈させた要因だろう。
 しかし、量子力学や複雑系(カオス)理論では、どれほど情報を揃えても未来を完全に予測することは不可能だとされている。つまり、この“未来決定論”は否定され、私たちの未来はむしろ無限の可能性に満ちているという結論に至っている。

 しかし、未来があまりに定まっていないのも考えものである。

 北野武主演初監督作「その男凶暴につき」と言う映画で、忘れられないシーンが有る。
 北野武扮する主人公と、彼を狙う殺し屋が人混み溢れる街中ですれ違い、無言のまま静かに銃撃戦を始める。
 そして、その流れ弾が、さっきまで普通に笑いながら話していた若い女性の額を貫き、女性は絶命する。二人の格闘は何事もなかったかのように続く。
 北野武監督が、この無慈悲・無常をどれほどアピールするつもりがあったかは知らないが、私にとっては強いトラウマになった。

 そして、昨年12月、マクドナルドで並んでいた何の落ち度もない女子中学生が、通り魔に刺されて死亡した。

 正月早々陰鬱な話になってしまうが、このように、何の因果もなく、あっさり命が失われるさまを見ると、無限の可能性を持つ未来とは、逆に、明日は我が身、一寸先は闇ということでもあり、別の悪魔を感じずにはいられない。

2 ラプラスの天使
 思うところがあって諸子百家を学び始めた頃、孔子や孟子を経て老子に触れると、そこには“無為自然”の思想があった。これは“作為を捨て自然に任せることが良い”という思想で、私はこれを“人の望みや努力といった作為は全て無為”と捉えた。これにより、私の中に“ラプラスの悪魔”が降臨した。
 その当時、家族構成が似通った一家が無差別殺人に遭う事件が起き、被害者の因果からは何も導き出せず未解決のままであった。この理不尽さに、私は宇宙の可能性こそずっとずっと悪魔的なものと感じた。
 しかも、その強大な可能性の前には、自分の命も、家族の命も、あまりに無力で、抗う術がまるで見当たらない。
 そして私はタチの悪い虚無思考に囚われてしまった。

 自分は、何のために生まれてきたのか?自分の生に意義はあるのか?
 Mr.Childrenの桜井さんの詞には、よく出てくる問いで、それを考えたことがない人はいないだろうが、大抵は、目を背けて考えないようにするものだ。
 しかし、これをまともに見据え始めてしまうと危険だ。駅のホームの端に立つのが怖くなってくる。なぜか?衝動的に飛び込むんじゃないかと考え始めるからだ。
 
 しかし、諸子百家を学び続ける中で、私は韓非子に出会った。
 彼は“法を定めることで、やってはいけないこととやったほうが良いことが定まる”と説く。それは、何のために生まれてきたのか?の答えにはならないかもしれないが、何をすれば楽しくて、また安心で、何をすれば苦しくて、また危険であるかも定まる事を示しており、それで電車に飛び込む意義は無くなるし、落ち度もなく理不尽に不幸に会う可能性も下げられる。 残念ながら、高度な法治国家である日本においても、予測不能な不幸は訪れるが、それでも法が存在しないよりずっとマシなわけである。
 法は、未来予測を可能とし、人智の及ぶ範囲で未来をコントロールできる事を示す。私はそういう国に生まれ落ちた。従って、もっと予測不能で不安な明日に怯える人々が、数多存在する現在世界においては、ずっと幸運なのである。

 虚無思考に苛まれていた私の前に“ラプラスの天使”が降臨した。

3 Chapter3の目的
 本稿はChapter3の最終稿として思案してきたものである。
 前巻“説難”では無秩序なエッセイの中に“起承転結”を潜伏させ、本巻“孤憤”では“奇想天外”の構成を意識してきた。
 「天」に当たるChapter3は、最終目的である“天下布法”を掲げ、それが不安な明日に怯える人々や虚無に陥った人々の下に”ラプラスの天使”を降臨させるものである事を示し、その手法や障害を論じる本書の核心である。
 しかし、ここに来て、アクセス数が減少しており、その原因を考えている。グローバルな視点を広げすぎたことで内容が散漫に見えるのか、長文をまとめきれず言いたいことが伝わりづらいのかもしれない。何より、テーマが限られていて、同じ事を繰り返しているように見えたのかもしれない。しかし、ここは最重要な場面であるため、ここで飽きられるのは非常に困る。
 そこで、まだChapter3は続くのだが、先に、結局のところ何が言いたいのかを、年明け第一稿を機に開示することにしたわけである。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」

 右に座る女性が、聖母マリア。左の羽の生えた天使は、大天使ガブリエルである。
 ガブリエルから、処女であったマリアが、精霊によって、神の子イエスを受胎したことを告げられるという、聖書では、テンションバイブスの場面らしいが、神格化し過ぎで私は好きじゃないエピソードだ。
 ただ、この絵画におけるダ・ヴィンチの革命的技法・構図・タッチは称賛する。
 キリスト教が世に広まったのは、広大な版図を誇ったローマ帝国において、多民族国家の安定を図るため、その普遍的な教義が秩序維持に役立ったからだと考えられている。多様な価値観を持つ人々の間で、普遍的な指針を提供する存在として、神のルールが果たした役割は大きい。
 ルールが定まれば、やってはいけないこととやった方が良い事が定まる。そうすれば、未来を予見することができる。一寸先は闇でなくなり、生きる意義も見出せるようになる。そのことは、世の混沌の多くを解決へ導く第一歩である。
 『受胎告知』は新しい命の可能性を象徴する作品であり、私たちが未だ解決策を内包しながらも行動に移せていない現実を示している。
 宇宙の可能性は無限であるが、なるべく人類にとって都合の良い未来への確率を上げるべきであり、私たちは、豊かな教育環境を通じて、その力をすでに孕んでいる。

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