
君死にたもうことなかれ 20190901_C/4
過日、当ブログで、「命は、地球より重い?」そんなことは幻想で、命は時として紙のように軽くなるし、悲しい中学生にとって、命は五分の魂より軽い。とコメントした。
その後、夏休み明けを悲観して、この9月1日に自殺する子が多いという記事を何度か見た。私の記事など見ている人はごくわずかだが、もし私の発言がきっかけで、そんな軽い物なら捨てても構わないと考えるような人がいたとしたら、少し話を聞いてほしい。
まず一つ。確かに命は軽い。それだけに自殺することは何の影響力も及ぼさない。
もし、自分が死ぬことによって、学内のいじめが問題になって、いじめた側が糾弾される。放置したものが咎められる。皆が心を痛める。と考えているのであればそれこそ幻想である。大変辛いことを言うが、私はもう50歳だが、人をいじめて死に追いやった、あるいは、同じ教室に居ながら、それを止められなかったことを反省している。と言う人に出会ったことが無い。
「俺の学校にも自殺した人が居たよ。ひどいイジメに会っていたらしいけど。」と少し距離が有る人間が自慢げに話しているくらいだ。
私も、中学の間イジメられていた。しかも一つ上の級では自殺者が出ていた。
担任やほかの先生も再発防止のために、当時珍しいビデオカメラで再現フィルムまで作って、イジメの悲惨と非人道性を訴えたが、上映の次の日、そこで披露された行為を私はされそうになった。
さすがに強気の女子が見かねて、「頭悪すぎ!」と一言突っ込んでくれたので免れたが、彼女はその半年後いじめられっ子になっていた。
この世界は残酷だ… (進撃の巨人 ミカサ・アッカーマン)
自殺を止める常套句に「生きていれば必ず良いことが有る。」というが、その「良いこと」は、今起きている、日々あいさつ代わりに蹴られ殴られ、陰口を叩かれ、仲間も居ず、発言も許されず、教科書を汚され、人前でズボンを脱がされる(すべて私が受けた行為だが)。それに匹敵するものなのか?
残念ながら、人生には良いことも悪い事も有り、生きていて正解だったという答えにたどり着くことはなかなかに難しい。
しかし、一つ言えることは、中学・高校の数年間など、人生にとって、それほど重要なものではないということ。
私も一度きりの人生、アニメのような青春を送りたかったが、そんな青春を送った奴も、アイドルやプロスポーツ選手になった奴くらいの確率でしか存在しない。
はっきり言って、今は生死を卓上に置いてしまうほど深刻な悩みかもしれないが、人生は残酷でありながら破天荒で、竜巻の中を舞う風船のようなもの、いずれ、今の深刻な悩みも耳くそのような思い出になる。
今や、私にとってのいじめられていたころの記憶は、正月に2~3回合った母の叔母さん(祖父の兄弟?)程も無い。
でも、じゃあ逆に、今を我慢して人生を全うすることに何の意義が有るのか?
後日になれば、どうでもいい問題になるとは言え、「今」をどう考えるかが問題なんだもんね。
こんな分析が有る。
いじめられっ子の多くは、突き抜けるほどではないが、やや学力が高い傾向にあるらしい。私の場合も最初のきっかけは、言い回しや、言葉遣いが偉そうなところから嫌われたようだった。
これに対し、いじめっ子の方の学力は低い傾向にあるらしい。大体そうだろうなと思う。テレビ以外で、クラスで1位2位の秀才がイジメをしていることを聞いたことが無い。有ったらそいつはサイコだ。多くは平均点以下の連中で、いじめられっ子の言っていることが半分も理解できない。その苛立ちがイジメに繋がっているのではないか?
11年前のブログで、「イジメ依存症」と言う記事を書いた。今日は主題ではないので、詳細は割愛するが、要は、いじめている方が精神疾患を患っているという説だ。
こうなると、いじめられっ子の自殺は、人類の損失だ。
人類は他の動物がそれぞれ授かった特技と同様に、脳を授かった。
比較的頭の良い種が、比較的頭の悪い、しかも何らかの疾患をもっている種に駆逐されるなど生物学的に有ってはいけないことなのだ。
いじめられっ子が生き残るべき意義は、そこに有る。
さてでは、どうやって生き残ろうか?
方法はいくつも考えられていて、何が正解かはわからないが、私の場合はこう考えた。
運動神経も悪く、臆病者の私が、唯一磨ける技は「勉強」だ。この日本という、平和で、私のようなものでも、「頭」さえあれば、勝てる国に生まれたことを感謝した。そしてこのくだらない中学時代を終えた後、今俺を蹴飛ばしている低能とも、良い高校に行ってしまえばお別れだし、大学に行ってしまえば、こいつを絨毯にしてやることもできる。そう思った。
それに、クラスで1位2位のいじめっ子が居ないように、クラスで1位2位のいじめられっ子も珍しかったというのもあった(これは高望み過ぎだが)。
いじめっ子が自分の何を嫌っているのか知らないが、ある程度の学力のある世界に行けば、必要な礼儀・作法・常識は問われる。よほど迷惑でない限り、今自分より低能かもしれない人に指摘されて直す必要は無い。
しかし、それでは、彼らの腕力なりよくわからない影響力による攻撃を受ける。
その防衛力を高めるのが「勉強」だ。1位2位は難しいだろうが、とりあえず、クラスのトップレベル(上位10%くらいかな)に入れば、大分状況は変わるはずだ。
中学レベルの勉強なら、つぎ込んだ努力に対する効果は確実に現れる。
ただこの苦行は、いじめられながらではもたない。しばらく、学校から離れないといけない。
夏休みは格好のチャンスだったかもしれないが、夏休みは遊んだ方がいい。
当面は、家族に相談し、「勉強」で打開するから、しばらく学校を休ませてもらう事を提案しよう。順序立てて言わないと両親はヒステリックになるから順序を示す。
①今から言うことでヒステリックにならないこと。
②いじめられていて、新学期は登校したくない。
③登校しないとまたイジメのネタにされるから、当分登校しない。
④休んでいる間に学力を上げて、いじめられない圏内に逃げる。(夏休み中にしとけよ、と言われたら、最近気付いたと答えればよい。)
⑤ある程度武器を揃えたら必ず学校にカンバックする(引きこもりのままでは後の人生が辛すぎるからね)。
⑥親には、イジメの相手を特定せず、問題にせず、①~⑤の実現のため、学校と協議し、どうすれば目立たずにこれが実現するか?経済的にどうするか?そういった問題を調整してもらう。(優秀で人格的にも尊敬できる家庭教師をあてがうのが理想的なのだがこれは難しいな。)
父親が理性的な人なら、このメモをそのまま渡すといいだろう。このような調整は、サラリーマン社会では日常茶飯事だから。
アルフォンス・ミュシャ「黄道十二宮」
大阪堺市に、ミュシャ専用の美術館が有る。所蔵量の割に展覧スペースが小さいので、見たい作品を見られるタイミングを図るのが大変だ。
ところで、どうして、パリやプラハで活躍したミュシャの専用美術館が堺市にあるのか?館員の話によると、カメラのドイという一時期一世を風靡した企業の社長が熱心なコレクターで、堺市に思い入れが有り、寄贈したというのであるが、彼は堺市の出身でもなければ、カメラのドイも堺市が拠点だったわけではない。
彼が堺市を選んだ理由。それは、彼がここで新婚時代を過ごしたということであった。
ミカサ・アッカーマンは、「この世界は残酷だ。」の後「そしてとても美しい」と続ける。
美しく華麗なミュシャのコレクションに匹敵する美しい思い出が、土居社長の新婚時代の堺市にあったのだろう。それだけで、人生は上々じゃないか。