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#6 イヤホン on ヘッドホン
どうやら、僕は無音に対して極端な苦手意識があるらしい。
もちろん、生活に支障をきたすほどではないので“恐怖症”というほどではないかもしれない。しかし、一般的な人々よりも、無音になる瞬間——特に、音があった状態から突然無くなる瞬間に強いストレスを感じることは確かだ。
当たり前に存在していた音が消えるときの、耳の「慣性の法則」に逆らうようなあの違和感と焦燥感、そして不快感。そうしたストレスを避けるため、僕は常に何かしらの音を聴いている。家ではスピーカーを使い、外ではヘッドホンを手放さない。
ここまでは、特に珍しい話ではないだろう。
イヤホンの上にヘッドホン
自分が「無音恐怖症かもしれない」と強く自覚したのは、音楽を作っているときに取ったある行動だった。
「イヤホンをしてその上からヘッドホンをする。」
そう、イヤホンで作業中の音を聴きながら、その上からヘッドホンで好きな音楽を流すというもの。
音楽制作では、PCにイヤホンを繋ぎ、自分が作った音を確認しながら進める。しかし、その音は単発的・断続的なものが多く、その隙間の「無音」が耐えられない。音が鳴っていない一瞬にドキッとしてしまうのだ。
そのため、イヤホンで作業中の音を聴きながら、ヘッドホンで好きなアーティストの曲を流す。音楽を作っているのに、別の音楽を聴いているという矛盾。
「そんなことで集中できるのか?」
確かに、100%の集中はしていない。だが、僕のスタイルはそもそも“希釈した集中”を長時間続けること。40〜50%の集中を維持しながら作業をすることで、精神的な負担を減らしている。そして、好きな音楽を聴くこと自体が楽しいので、それをエサにしながら制作に向き合うのだ。
無音のストレスと局所集中
しかし、どうしても“局所集中”しなければならないときがある。
例えば、頭の中の音楽の解像度を一気に上げて、クリエイティブな作業の核心に迫る瞬間。そのときは、好きな音楽を止める必要がある。
それはもう、ものすごいストレスだ。
無音の部屋。無音のはずなのに、耳がザワザワする。だが、集中の深海に潜らなければならないときは致し方ない。しかし、突然の無音は耐えられないので、「フェードアウト」で徐々に音を消し、そして一気に作業の深海へ潜る。できるだけ無音の時間を短くする努力も忘れない。そして、集中がひと段落したら、また音楽を流しながら作業を続ける。音楽が聴ける、安心の作業パートだ。
情報の消化不良と「考える時間」
イヤホンで制作の作業音、ヘッドホンで好きな音楽──こんなことをしていると、当然ながら脳には相当な負荷がかかる。そして、自分でもわかっている。これは決して褒められることではない。
なぜなら、情報の消化不良が起こるからだ。
常に何かしらの情報をインプットしていると、それを咀嚼し、吸収する時間がなくなる。本来ならば、得た情報を整理し、自分の中に落とし込み、最終的にアウトプットへと繋げなければならない。しかし、僕はそれを怠ってしまっている。
“出力する側の人間”として、それは非常によろしくない。反省すべきことだ。
反省しながらも、やはり音楽を聴き続けてしまう。今、この文章を書いているときも、やはり音楽を聴いている。
だから、ここに宣言する。
入浴時は、何も音を流さない。
自分の思考を整理する時間として、何も聴かない時間を設ける。
そして、もし同じように「常に何かを聴いていないと落ち着かない」、もっと拡大して「何かを見ていないと、スマホを見ていないと落ち着かない」と感じる人がいたら、一緒に実践してほしい。
動画や音楽をオフにして、情報が入り続ける環境をシャットアウトして、自分の中の情報を咀嚼し、整理し、吸収し、考える時間を確保すること。
ただ流されるのではなく、真偽を見極め、得た情報を自分の見解として昇華すること。
それが、現代の日本人——僕自身も含め——に決定的に足りていないものなのだから。
頭を、働かせよう。