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三月物語~向かっていく気持ち


 卒業式の最中に、麻衣子(まいこ)からメールが入った。
 


「くそっ」
 腹痛と偽り式を抜け出したおれは、大車輪の勢いで、駅に向かって自転車を漕ぐ。
「ったく、なんなんだよ。あのメールは」
――― ごめん。コースケ。
「ふざけんなよ」

 心臓破りの坂をのぼる。足がつりそうになるくらい辛い。でも、ここで力を出さずして、どこで出すというんだ。
 自分が吐く白い息で、視界が曇る。足の指も、手袋を嵌めていない指先も、感覚がないくらいに冷たい。

 麻衣子は一つ年上の恋人で、おれのいるサッカー部のマネージャをしていた。今日は、彼女の卒業式だった。
 式の後はふたりだけで隣町に行き、雑誌に載ったイタリア料理店で卒業祝いをする約束をしていた。そのために、おれは冬休みに郵便局でアルバイトをした。寒い部屋で膨大な量の年賀状を黙々と仕分けした。すべて、麻衣子のためだった。
 それなのに、おれは彼女がいないのに気がつきもせず、暢気に冷えたパイプ椅子に座っていた。間抜けすぎて、情けなくなる。

 駅に着いた。駅舎の壁に自転車を立てかけ、そのまま走って改札を抜けた。すると、おれの目に、鉄道員の藤川のオヤジさんが電車を見送っている姿が飛び込んできた。色あせた緑色の電車が、みるみる遠くになっていく。
 無理だ。追いつけない。横腹を押さえたおれは、彼女が乗った電車を見送ることしかできなかったのだ。

「風邪ひくよ」
 背中が叩かれた。
「……おまえか」
 クラスメイト兼、麻衣子の妹の西藤 鮎子(さいとう あゆこ)が立っていた。
「ほら、貸してあげるよ」
 西藤はおれの首に、赤と黒のチェックのマフラーを巻いてきた。麻衣子と同じシャンプーの香りに、顔をしかめる。
「西藤、なんでいるんだよ」
「お姉ちゃんからメールがきたから」
 西藤が携帯の操作をすると、麻衣子からのメールが出てきた。
―――鮎子には、迷惑をかけると思う。ごめん。先生のところに行きます。
「これ、このメール、いつ入った?」
「卒業式が始まる前」
「マジかよ」
 なんだよ。おれよりも、妹が先かよ。脱力感で、そのままホームにしゃがみ込んだ。

 足音が近づいてきて、止まった。誰だと顔をあげる。
「おやおや、卒業式にも出んと、全くしょうもない。この町の子どもらは、一体どうなってるんだろうねぇ」
 藤川のオヤジさんが、大げさにため息をつく。
「ほらほら、そんなとこ座らないで、ベンチに座れ? 腰、冷えると後々大変だぞ」
 そう言いながら、オヤジさんは俺たちの横を通り過ぎていった。

「ほれほれ、立って」
 しゃがみ込んだおれの首にかかったマフラーを、西藤が軽くひっぱる。
「麻衣子が東京に行くって、知ってたのか?」
「事情をちゃんと知ったのは、あのメールよ。お姉ちゃん、口が堅いし。言わないもんね。でも、なんとなくわかってたけど」
「だったら、止めろよ! みすみす、先生のところに行かせるなよ! 西藤は、止められたんだろ? 電車にも間に合ったんだろ?」

 麻衣子に置いていかれたこと。おれより先生を選んだこと。そんなこと全部をほったらかしにして、電車に乗る麻衣子を止めなかった西藤をなじる。

「麻衣子が行っちまったのは、西藤のせいだからな! おまえが止めなかったからだからな!」

 汚い言葉が、次から次へと飛び出す。でも、頭の隅ではわかっている。これは、西藤への八つ当たりだって。
 
 去年の夏を過ぎた頃から、麻衣子の様子がおかしくなった。おれといても、上の空のときが多くなった。思い悩んだような表情が増えていった。
 すべては、あの東京からの教育実習生が原因だった。あいつが来てからおれたちは、キスさえもしなくなったのだ。

 麻衣子の心が、おれと先生の間で揺れていることは、薄々わかっていた。けれど、所詮、先生はよそ者なのだ。うちの高校が母校だかなんだか知らないけれど、今は東京暮らしなのだ。実習さえ終われば、消える男だ。まさか、彼女が先生を追いかけて、この町から出ていくなんて想像もしなかった。
 
 彼女の気持ちを甘く見ていた。軽んじていた。
 だから、彼女を行かせたのは、おれだ。西藤は関係ない。
 
 西藤は、大きな瞳に涙をためながら、おれをじっと見上げている。口は、悔しそうにへの字に曲がっていた。

「私だって! 私だって、私だって、私だって寂しい! お姉ちゃんがいなくなって、喜んでいるわけないでしょう!」
 西藤が、コートから出た細い手首で涙を拭う。
「でも、しょうがない。……しょうがないでしょ? 好きな人に向かっていく気持ちを止めることなんて、誰にもできないんだから」
 西藤が泣きながらおれに抗議する。
「あんただって、わかるでしょ? お姉ちゃんを好きになった、あんただって、同じでしょ? 気持ちは止められなかったでしょ?」
 そうだ。
 ……そうだ。
 好きな相手に、どうしようもないくらい向かっていく気持ちを、おれだって知っている。
 知ってるから。知っているからこそ、余計に辛い。
 麻衣子のその気持ちが、おれではない男に、全てをかけて向けられていると思うと、やりきれない。

 年下のおれに、気持ちの全部で向かってきてくれたように、きっと彼女は先生にもその全部で向かっていったんだ。


 心が空っぽになる。
 諦められないけど、諦めなくてはいけないことなのかもしれない。


 学校のチャイムが聞こえてきた。
 なんにもない町だから、こうした音は怖いくらいによく響く。

「戻るぞ」
 西藤のコートの袖をひっぱる。彼女は、驚いた表情を浮かべた。
「卒業式。おまえだって、世話になった先輩とかいるんだろ?」
 ずるずると西藤をひっぱる。
 自転車は、駐輪場に置いてあった。きっと藤川のオヤジさんがやってくれたのだ。
「うしろ、乗って」
「でも、ここ、お姉ちゃんの席でしょう」
「つべこべ言わずに、乗れよ。坂、下りるから。しっかりつかまっててな」
 西藤をうしろに乗せ、おれは自転車を漕ぎだした。

 冷たい景色が、頬をかすめて飛んでいく。
 こんな勢いで、彼女もおれをぶっちぎったのだろうか。

「あんたのこと、お姉ちゃん、ちゃんと好きだったよ」

 そんな言葉が背中で聞こえて、風に消えた。



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