【第20章・鶴御成の罠】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)
第二十章 鶴御成の罠
新見典膳が京都島原で乙星太夫の色香に軽く溺れていた頃、狩野吉之助は、相棒の島田竜之進と共に江戸で職務に励んでいた。
仕事の内容は従前とさほど変わらない。しかし、確実にグレードアップした。同じ主君の身辺警護でも、以前は行列の最後尾についているだけだったのが駕籠脇を固めるようになった。他家への使者にしても、より機微に触れるようなものになっている。
吉之助はさらに納戸役補佐も兼ねる。彼はやはり絵師なのだ。最初は遠慮して調度類の点検だけしていたが、屋敷中を見て歩くようになると、傷んだまま放置されている襖絵や屏風が意外に多いことに気付いた。江戸湾に面する浜屋敷は湿気も多い。そのせいもあるだろう。
絵師の血が騒ぐ。そして、一旦手を付けると半端なことは自分自身が許せない。昼間は表の仕事があるので、絵師的な作業はどうしても夜やることになる。そのため、慢性的な寝不足に陥っていた。
もっとも、吉之助は、自分で勝手に仕事を増やし、勝手に困っているのだから、まあ、よい。問題は、妻の志乃である。夫の絵画の道具がどんどん増え、たった二間しかない御長屋の住居を埋め尽くさんばかりになってきた。彼女の堪忍袋の緒が切れるのは、今日か明日か。
そういうタイミングで、絶好のご機嫌取りの機会が来た。浜屋敷の庭園の一般公開である。この日だけは、藩士や出入りの商人などに自由散策が許される。皆が弁当などを持ってきて家族と一緒に楽しむ。概ね年に一回行われているが、この年は、紫陽花が咲く時期に合わせて行われた。
「なんて美しいのでしょう。まるで極楽浄土ですわ」
この庭園の最大の特徴は、潮の満ち引きで景色を変える、潮入の池、である。清々しい緑と星が瞬くようにそこここに咲く紫陽花。バックには壮麗な御殿群。それを広大な池に架かるお伝い橋の上から見た志乃は、すっかり機嫌を直してくれた。しばらくの時間稼ぎにはなるだろう。
一方、竜之進も別な意味で忙しい。彼はまだ二十代半ばと若い。そこで、間部から剣術の腕を少しでも上げておくように言われ、空き時間があれば、せっせと道場通いをしているのだ。
竜之進は一刀流を遣う。父親から基礎を習った後、身延山麓の田舎道場で研鑽を積んできたという。江戸で著名ないくつかの道場で稽古に参加してみた結果、「思ったよりやれそうです」というのが、本人の感想である。
そして、ますます蒸し暑い七月十六日の朝、長屋の戸口で竜之進の声がした。
「吉之助さん、お早うございます」
「ああ、開いてるよ。朝飯、一緒にどうだい?」
「それはありがたい。ところで、間部様からの連絡で、四つ(ほぼ午前十時)に御成書院に来るように、だそうです」
「分かった。で、どうだった?」
「何がです?」
「何がって、昨日行ったんだろ。本所のほら、山鹿流兵法の軍学塾さ」
「ああ、あれは駄目ですよ。陰陽がどうとか、礼法がどうとか、軍学というより儒学の講義を受けているようで。実戦で使えそうなのは、陣太鼓の叩き方くらいかな」
「そうなのか」
「でも、大層流行ってますよ。大名まで聴講に来てましたから」
「へえ。どこの殿様が?」
「浅野、浅野なんと言ったかな・・・」
「浅野様と言えば、芸州広島じゃないか。大藩だぞ」
「いや、分家ですよ。播州赤穂って言ってたかな。そうだ。お供の中に、あの堀部安兵衛がいましたよ」
「えっ?! それはもしや、高田馬場の中山安兵衛ではありませんか」と、志乃が朝食を準備する手を止め、華やいだ声を出した。
「志乃、知ってるのか」
「知ってるも何も、高田馬場の決闘じゃないですか。十八人斬りですよ。庄屋さんのところで江戸から来た読売を見ましたもの。剣の達人で、その上、役者のような色男だと書いてありました」
「へえ」
「いや。水を差すようで申し訳ありませんが、腕はともかく、見た目は至って普通のおじさんでしたよ」
「あらやだ。竜之進様、女の夢を壊さないで下さいませ!」
吉之助と竜之進が御成書院に入ると、主君の綱豊以外は全て揃っていた。上段之間に向かって右側に用人の間部。左側には江戸家老・安藤美作、少し下がって武士のまとめ役である番頭・鳴海帯刀、そして、財務と渉外を担当する中老が一人ずつ並んでいる。
さらに一人、吉之助が初めて見る者がいた。部屋のほぼ中央で静かに目を閉じ背筋を伸ばして座っているその男、名は新井君美。号して白石。藩主の政治顧問を務める儒学者である。この時、四十二歳。
吉之助と竜之進は、一同に軽く会釈してから間部の少し後方に控えた。ほどなく、二人の近習を従えて藩主・松平綱豊が現れた。
「皆、面を上げよ。困ったことになった。詮房、説明を頼む」
「かしこまりました。昨日、殿にはご登城あそばされ、城中にて、老中首座・柳沢出羽守様を通じ、公方様のご指示を承りました。本年師走上旬、公方様に代わって、鶴御成を実施するようにとのことです」
これに即座に反応したのは安藤家老であった。
「待て。鶴御成は、生類憐れみの令により廃止されたのではなかったか」
「はい。されど此度、武家伝奏・中御門卿から京都所司代に対し、以前の如く、新年の儀式に供する鶴を献上してもらいたい、との申し入れがあったそうです」
「公方様は、それをお受けになったのか」
「はい。公方様は現在、ご生母・桂昌院様のため、女人として過去最高の従一位の官位を得ようと朝廷に働きかけておられます」
「朝廷のご機嫌取りか。しかも、殿に代わってやれだと。鶴御成は、武士の棟梁が鷹狩で鶴を仕留め、帝に献上するというもの。やるなら、公方様ご自身がなさるべきであろう」
「美作、詮房に怒っても仕方あるまい」
「こ、これは失礼いたしました」
「それで、白石先生はどう思うか」
綱豊の問いに、謹厳実直、とその広い額に墨書してありそうな新井白石が、重々しい口調で答える。
「回避すべきでしょう。これは、殿を貶める罠でございます」
「どういうことか」と、綱豊が一層表情を曇らせる。
「公方様は、生類憐れみの令に併せ、先年、血の穢れの清めに関するお定めを発しました。その定めによれば、殿は、鶴御成の後、ひと月以上屋敷内で精進潔斎しなければならず、お城における新年の儀式・行事には一切ご出席になれません。年頭、全ての大名が揃う場に殿のみご欠席となれば、何と言われるか」
それに対して渉外担当の中老が異議を唱えた。
「しかし、新井先生。鶴御成の代行は、あくまで公方様のお指図によるもの。それで登城差し止めとなったからと言って、殿が面目を失うことはありますまい」
白石が即座に切り返す。
「それは甘い。諸大名にとって理由などは知らぬこと。殿のご不在自体が問題なのだ。そして、鷹狩は公方様の堅く禁じるところ。たとえ公方様のお指図であったとしても、ここで鷹狩を行ってしまえば、その事実をもって、いつ何時言いがかりをつけられるか分からぬ」
白石はさらに続ける。
「一番の問題は、その公方様でござる。公方様は儒学にご熱心で、聖賢の教えに則った政を目指しておられます。それは正しい。しかし、現実には何事も思い付きで、一貫性というものがありません。しかも、永らく奥に引き籠り、直接お考えを伺えるのは柳沢出羽守のみ。その出羽守は、公方様のお気に沿うためなら、白を黒としても恥じぬ者。まるで晩年の始皇帝と宦官・趙高の如き邪悪な組み合わせ。衆望を集めていた皇子・扶蘇が罪なく誅殺された例を思えば、殿、わずかな隙も見せてはなりません」
綱豊は脇息に肘を託したまま何も言わず、ただ、ため息を吐いた。白石が続けて言う。
「使い古された手ではございますが、殿、ここはしばらく病と称して・・・」
その時である。上段之間の脇の襖がさっと開いた。吉之助の目には、そこに何やら、ぼんやり人の形をした白い光が入ってきたように見えた。綱豊の正室にして江戸期を代表する賢女・近衛熙子の登場である。
次章に続く