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『北條民雄集』(岩波文庫)
文学史の授業で北條民雄という作家を知った。いつか読んでみたいと思っていたら、NHKの某番組で特集が組まれ、それをきっかけとして本屋で岩波のものを買った。
一人旅のおともに携帯したのだが、のっけから読み進める手が止まらず行きの電車内で半分も読んでしまった。ホテルで眠る前に、もう三分の二ほども読んでしまった。
ドキドキハラハラする内容であったり、軽快で明るい雰囲気であるわけでもないのに、ひたすら読み進めていた。どうしてか。
ハンセン病を患い、死を考えるようになり、実際自殺を試みるが、やはり死に切れない。「死にたい」と思う反面、「生きねばならぬ」という意識がはたらく。アンビバレントな状態に陥りながらも、それでも病は進行していく。
「生きる」ということ、「人間」であるということ、「いのちがある」ということ、これらは同義ではない。
このことが文面からこちらに向かって肉迫してくるようで、息が詰った。
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。(中略)あの人達の「人間」はもう死んで亡びてしまったんです。(中略)誰でも癩になった刹那に、その人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。(中略)けれど、尾田さん、僕等は不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。(後略)」
社会から隔絶されたとして、生命は終わらない。ハンセン病者は家族の戸籍から除かれたという事実があるが、そこでその人が実際に死ぬわけではない。この、社会に生きることと病院内のみで生きること、人間間の営為と閉鎖空間の生活とのギャップは、しかしながら痛烈である。
病の進行、いずれ来る死の時に怯えながらも、個人の中での闘いは続く。
そんな中で、同じ病を患う者同士の会話や、冬の日の妊婦の出産、子どもたちとの交流などを描くことで、北條自身やその周りの人々が生きている(生きていた)ことを切に伝えようとしたのではないかと思う。