小説『エミリーキャット』第28章・扉
橋の建つ遊歩道は遠く、その池から聳(そび)える橋までのコンクリートの壁面は、まるで巨大な黒板が居丈高に並列するかのように見えた。
池の小波をチャプチャプと仔犬が水を飲むような音をたててその漆黒の壁に小さく当たっては跳ね返り、
当たっては跳ね返りして、その小波に月の光りがまるで黄金(きん)いろや銀いろのまだ固まっていない飴を垂らしたように壁裾の水面(みなも)でゆらゆらと光の乱麻となって揺らぎ、騒いでいた。
その上で月の光を浴びた橋の欄干は、まるで濡れたように目映(まばゆ)い銀色の輪郭を見せて更に上に高々と在る。
彩は猫の姿を探し、橋の上へと懸命に伊達眼鏡をとうに外した近眼の目を絞るようにしてその頼りない夜目を走らせた。
しかしどう見ても猫の姿はなく
『ロイ!?』
と彩は闇しか無い橋の上へ声をかけた。
『ロイ君でしょう!?
お願い、そうだって言って、
私も貴方に逢いたかった!』
『ニャア!』
『えっ…』
すぐ傍で猫の鳴き声がして、彩は思わずひやりとして飛び上がりそうになった。
闇の中で誰も居ないと思っていた折り、急に肩を叩かれるその感触に衝撃を覚えるのにも似て、彩はその声のするほうを素早く振り返った。
ロイは彩の足元からやや離れた場所に座っていた。
その姿は大型の猫なのに何故か、
ちょこなんとして見えた。
相変わらずブスッとした顔でニャア!と鋭く一声また鳴いた。
『ロイ?ああ本当にロイなのね?
逢いたかったわ、
エミリーは元気?』
『ヴニィウイヤヤアアア~!』
なんとも言えないダミ声で低くて渋いハスキーな鳴き声は、懐かしくも彩には泣きたいほど嬉しい声だ。
『あぁ初めて森の中で逢った時も、そうやって鳴いてくれたわね、
嬉しいわロイ、こうしてまた逢えただなんて』
彩は思わず感激のあまり涙ぐんで佇むとロイを抱こうとしたが、ロイは『ヴイッ!』
と一声鳴くと、スルッと彩の腕をすり抜けて橋の上へと階段をかけあがっていった。
『ロイッ…行っちゃうの?』
悲しみで胸が張り裂けそうな彩の今にも泣き出しそうな顔を、階段の途中で立ち止まったロイは顔だけをこちらに向け、まるで人のように彩を振り返って見下ろすと
『ニィギャア!』
と怒ったように、あるいは笑ってるようにも見える不可思議な表情で鳴くとまた一目散に階段を駆け上がって行った。
彩が泣きながらぐずぐずしているとロイは橋の上まで到達し、橋の欄干を支える鉄棒と鉄棒の間から首を突き出して流石に今度は怒りを感じさせる声で
『ヴィエヤニャァ~ッ!!』
といなないた。
猫じゃないみたいな鳴き声だ、
と彩は思った。
『ロイ…
エミリーのとこへ連れて行ってくれる?
私、エミリーに逢いたいの、
ロイになら出来るわよね、きっと』『むおおおおーっ!!』
まるで彩の優柔不断さにげんなりして、''いい加減にしろ、兎に角俺と一緒に来たら、万事オーケーなんだよ!"
とでも言っているかのようだ。
彩はアタッシェケースの持ち手を、つかんで拾い上げると、ロイを追って急いで階段を駆け上がろうとしたが、冷えきって一時的に麻痺した足が思うように言うことを聴かない。
足がもつれるようでちゃんと歩けないのだ。
『ロイ!お願いちょっと待って、
足がもつれて…
なんだかしっかり歩けないのよ』
『ヴギャオー』
『解ってるわよ!
大丈夫、絶対追いつくから、
だからお願い、ちょっとそこで待ってて、』
『うるぐるぅ~…』
といなないたかと思うとロイは橋の上をまるで弾丸のような勢いで走り去った。
『あっやだ!
ロイッ、ロイってば!
ちょ、ちょっと待ってったら!』
彩はもつれる足で苦闘しながら階段を登り終えると橋の上まで駆けて行った。
ロイは長い橋を渡り切った奥に座って彩が来るのを待っていてくれたものの、橋のたもと迄、彩が来るのを見届けるなり、
再び脱兎の如く駆けてゆく。
『ロイー!待って、
待って、
早すぎるわ!』
ロイの後を追って走るうち、例の貧しい木立の中を彩は息を切らして立ち止まってしまった。
『このままじゃまたさっきの不気味な‘’アナベル”とそのお友達のとこへ行っちゃうじゃない、
私、もうあそこは嫌よっ!』
『ウオーッ』
ロイが疎らに生えた木々の奥に座ってこちらを見ている姿が月明かりに照らし出されて一瞬くっきりと見えた。
彩はロイを見てしみじみと思った。
『…ロイって本当に美しい猫だわ、こんなに綺麗な猫ってそうそう居るかしら…
まるで王族の猫みたい、』
ロイの意思の強い凛然(りんぜん)とした瞳は暗闇の中で金赤に光る星のように瞬いていた。
豊かな毛並みは神話に出てくる獅子のように秋風になびいている。
『でも本当のライオンはもっと汚れてて…たてがみとかなんだか小汚ないのよね、顔も大きいし、
豹とかチーターとかのほうがよっぽど素敵っていうか、
いえ!それよりも猫のほうが更にノーブルだわ』
と彩は思った。
『ロイ…解ったわ、
行くわ、私、貴方についてゆくわ、貴方はエミリーの一番のお友達なんでしょう?
エミリーからもっとも信頼されているのよね多分…
だから私も貴方を信じるわ』
『ぐぅわお』
とロイは鳴き声だけは今一つノーブルでは無かった。
が、彩にはそんなことはどうでもよいことだった。
今や彩にとってロイは大切な友人であり、敬意すら感じてしまうカリスマですらあった。
彩は闇の中で街灯より眩しく光るロイの瞳を見て言った。
『連れて行ってちょうだい、
私をエミリーのとこへ』
ロイは無言で彩を見つめていたが、やがて疎林の奥へとどんどん走って行った。
足がまだ感覚が戻らないのを気にしながらも、必死でロイの後を追いすがるように彩は懸命に走った。
赤葡萄色の狭霧(さぎり)が吹き流しのように足元に流れ寄ってくるのを彩は怖れて、まるで跨(また)ぐように飛び越えながら、既にほとんど落葉して冬枯れした寒々しい裸木の目立つ疎林の中をロイと共に、駆けて抜けて行った。
狭霧は巨きな動く大理石模様となってゆっくりと回転しながら徐々に狭霧から濃霧へと移り変わってゆく。
その紅紫の霧が濃淡の帯をSの文字を描くように流線型にそよぐ中、
ロイは全くたじろぐことも無く、
むしろ俊敏でありながら平然と、
どこか慣れた動作で駆けてゆく。
濃い霧の帯がゆったりと流れゆき、今度は霧が淡くなり晴れ間がほんの一瞬、見えたりする都度、一目散に木立の奥へと駆けてゆくロイの後ろ姿が見えつ隠れつし、心細い彩はロイの姿が見えるたびにホッとしたり、見えなくなるとまた不安になったりした。
やがてかなり濃いマジェンダの霧が、さながら動く壁のように押し寄せてきて、彩はすっかりロイを見失ってしまった。
その濃霧がなかなか晴れない数分後、彩はほとんど眼前が見えない中を独りで走り続けるという不安にとうとう耐えきれなくなり、半ばベソをかきかき、辛うじて見える樹にぶつからないよう走ることだけで精一杯となっていった。
と、彩は爪先と足の甲に何か固い衝撃を受け、わけの解らぬままに足元を掬(すく)われた。
いきなり手を突く余裕も無いままに、枯れ葉が散り積もる中へ歠(の)めるようにして彼女は倒れ込んだ。
『…いったぁい…何??
なんで転んだの?私、』
見ると彼女の靴は片方だけ後ろへ飛び散るように在り、彩は見るからにひ弱そうな樹しか無いものと鷹を括っていたのに太く地面から隆起した意外なほどたくましい樹の根につまづいたことに気がついた。
霧はどんどん濃度を増してゆき、
そのマジェンダ色に彩は余計不安を掻き立てられその場に倒れたまま、とうとう耐え切れず、泣き臥してしまった。
『これ以上もう無理よ、
試練は人を鍛えるとかいうけれど、試練しかなかったらかえって萎えるし折れちゃうわ、
私、もういや!
なんでこんな目にばかり立て続けにあわないといけないの??
私、もう本当にやんなった、
帰るわ、うちへ帰る!
"太陽と北風''のお話知ってる?
エミリー、ロイ!?
貴方達が私に対してしていることはね、
全くの北風方式よ、
こんなの逆効果なんだからねっ!
私もういやっっ!!
もう絶対にいやっ!
私、貴方達のところへはもう行ってあげないからっ!』
彩はわぁっと大声を上げて紅い濃霧にすっかり閉ざされた木立の奥で倒れたまま号泣した。
木立中、響き渡るほどの大声を上げて泣いていた時間が一体どれくらい経ったのか誰にも解らない。
彩はやがて泣き疲れ、泣いて疲れた以上の疲弊にも心身共になぎ倒され、そのまま枯れ葉の降り積もる中で半ば失神するかのようにして眠ってしまった。
時がしんしんと耳鳴りのような音を立てて、晩秋の冷気と共に降り積もるように過ぎていった。
ふと目覚めて、彩はすっかり泣きはらした顔で起き上がり、強(したた)か打った膝をさすりながら人差し指で長い睫毛に溜まった涙を振り払った。
するとマジェンダの濃霧は彩が目覚めるのを待っていたかのように仄かな薄薔薇いろと化し、地面に座った彩の前で両側から帳(とばり)を開くように澄んだ晴れ間を見せた。
その瞬間、彩の目の前にロイがこちらを向いて座っている姿を月光がくっきりとまるで真昼のように色鮮やかに照らし出した。
それを見て彩は安堵と怒りとが両方一気に沸いてくるのを抑えきれない思いになった。
彼女は思わず『イジワル猫は私を置き去りにして一体どこへ行っていたのっ!?』
と叫びそうになったが、ふと目の前に先ほど飛び散った靴がきちんと置かれているのを見て、彩は急に何も言えなくなってしまった。
濃霧の中で彩が眠っている間、実はロイはこうしてすぐ傍に座って彩が目覚めるまで、ずっと待ってくれていたのかもしれない。
彩はそう思うと思わず手を延ばし、ロイの小さな愛らしい頭を撫でようとした。
するとロイは背伸びをするかのように後ろ足で軽く立ち上がると、彩のかざしてきた手のひらに向かって、まるでヘディングするかのように頭を軽く突き上げて、自ら彩に撫でられようとした。
ゴロゴロと喉を鳴らし、彩の手のひらへと頭をめり込ませるような勢いで何度も何度も頭や額を擦りつけてくる。
そんなロイの可憐な親愛の情の表れに、彩の頬を涙が伝いロイの上へパタパタと雨粒のように落ちた。
ロイはそれを犬のように激しく身震いすると振り払い、今度は小首をかしげて彩を不思議そうにじっと見つめた。
彩はそんなロイが愛おしくなって鼻をすすり上げながらこう言った。『…靴…ロイが持ってきてくれたの?有り難う、優しいのね』
黙って穴のあくほど彩を爛々と光る眼で見つめるロイの前で、彩はどことなく偉い人の前でするようにおっかなびっくり靴を履くと、よろめきながら立ち上がった。
ロイはそれを見届けると、さっきまでゴロゴロと喉を鳴らしていたのが嘘のように冷然と速足で先だって歩き始めた。
再びマジェンダの霧が立ち込め始めた。
一体どのくらい時間が経ったのか?彩はひたすらロイに付き従うように彼の後を追って歩き続けた。
その後、二時間も三時間も歩いたような気が彩にはしたが、もしかしたらたった数分だったのかもしれなかった。
やがて疲れた彩が顔を上げると、
マジェンダの濃霧が巨きな車輪のようにゆっくりと回転しながら移動し、次の瞬間、霧はとうとう完全に晴れ上がり、夜空で月を覆っていた雲までもがすっきりと途切れ、月灯りが遠く展(ひら)ける冬木立の奥を煌々(こうこう)と明るく照らし出した。
そして彩は見た。
その疎らな木立の奥に忽然(こつぜん)と扉が一つそそり立っているのを…。
雨風(あまかぜ)にさらされ、すっかり傷んだような、古くて塗装も捲(まく)れ上がってボロボロの表面も痛ましい茶色の扉だ。
その扉の前でロイは立ち止まると、彩を振り返ってぶにゃあと鳴いた。
"あの時と同じだわ''と彩は思った。あの時、森の中で初めて出逢ったロイはエミリーの棲む館の庭で、一階部分の花屋の硝子のドアーを開けろとまるで命じるように鳴いたのだった。
あの時、ロイが鳴かなかったら彩はあの館を外からじろじろ見るだけで、結局中へ入ることは無かっただろう。
館へ入ってゆくロイにつられるようにして、彩はつい足を踏み入れたのだから…。
‘’そしてロイは今度はこの扉を開けろと私に言うのね、”
彩はボロボロに傷んだ幾年(いくとせ)も風雨にさらされ続けたであろうその扉の鏡板にそっと手を触れると、
ボロボロと縮れて乾燥した塗料のカスが、彩の指先で一方向にザラザラと容易に寄せ集められた。
それと同時にそのカスは地面へパラパラと落ちたかと思うと、砂塵となって秋風に舞い、彩の足元を一周すると木立の彼方へと消えていった。
彩はすっかり錆びついたかのように変色した真鍮の取手を思い切って握ると、ふと足元に座るロイを見た。
ロイはただ湖よりも澄んだ瞳で彩を一心に見つめている。
ロイの澄みきった瞳を見つめるうち、心が凪いできた彩はロイの瞳に小さくひとつ頷くと、思い切って、その扉を手前に引いた。
(To be continued…)