小説『エミリーキャット』第36章・ブルー・ベルの泪
森へ入りどんどん歩くうち彩は徐々に嘘のように気持ちが凪いでくるのを感じたが、今更後戻りもしたくはなかった。
逃げずに誰かを愛するなんてきっとお伽噺か詩か、安っぽい誰からも読まれない廃れた小説の中でしかあり得ないことなのよ、現実はやっぱり駄目だった…惚れた腫れただけじゃどうにもならないことだってある、増して、と彩は思った。
『私とエミリーの関係やふたりを取り巻く世界は妖かしの世界だもの、私は生きた人間よ、
もうこれ以上は耐えられない』
その癖、彩はあの荒野に置き去りにしてきたエミリーの叫びがまだ耳に残っていた。
『貴女を愛しているわ!』
彩は森の中を歩きながらふと無自覚に涙が次々と溢れ、その頬を流れ伝い落ちることに気づいて手の甲でそれを拭った。だがいくら拭っても拭っても涙があふれ、彩は荒野に走って帰りたくなる思いに耐えた。
『あんな酷いことを言って今更なんなの?未練?』
彩は冬薔薇の咲く庭を走り抜けると前庭に面した硝子のドアーを開けて館の中へと入った。
2階へ駆け上がり荷物をまとめると、ふと客間用のドレッサーに映る自分に気がついて彩は自分が何故か奇妙に小さく歪んだように映っているような気がしてその縦に細長い楕円形の鏡の上の枠を手で押さえるとぐいっと鏡を一回転させて鏡面を壁に向けてしまった。
一階へ降りる螺旋階段からふと下を見ると、一番階下の階段と廊下の狭間にロイが座ってこちらをじっと見上げている姿が目に入った。
『…ロイ…』
彩は再び胸が軋むような痛みを覚えた。
『ごめんなさいね、
貴方の大切なひとを私は大切にし切れなかったわ…』
ロイはただ怜悧そうな眼と沈黙で彩を見上げていたが、それには一声も答えずにその場を立ち去った。
廊下を歩きながら彩は居間の扉の僅かな隙間からクリスや他の猫達が出入りするのを見て、思わずその隙間から中を見た。
暖炉の火は燃え、薪は静かにパチパチとはぜる音をたてながら穏やかに燃え続けている。近くのソファーやソファーの背凭れの上、
大ぶりなウィンザーチェアの上には猫達が居て、みんな心地良さそうに惰眠をむさぼっている。
その平和な光景は此処の女主(おんなあるじ)が居ようが居まいが、この世界ではまるで関係無く続いているのではないかと思うほどその様子はあまりにも普通で正常で平和だった。
グランドピアノの鍵盤の上を茶トラのショーンが歩く音も微笑ましく、彩は立ち去り難くなった。
でももう私は夢幻の世界にいつまでも留(とど)まってはいられないのよ、
彩はトレンチコートのウエストをグッと共布のベルトで絞り直すとショーンの頭を撫でてから、ドアへ向かおうとした。
すると背後でドサッと何か重たいものが落ちる音がして彩ははっとして振り向いた。
ピアノの傍にある小さなテーブルの上にいつの間にかロイが居て、その下には洋酒いろの絨毯の上に分厚い本が屋根のように伏せた形で落ちていた。
ロイが落としたのかもしれない、『ぎゃあ』とロイは低く鳴いた。
彩が首をかしげると更にギャアと大きな声で命じるように鳴いた。
『まるでその本を拾えって言ってるみたいね、』
彩は肩をすくめて『いいわ、最後なんですもの、それくらいするわ』
彩はコニャックいろの絨毯の上にある本の屋根に歩み寄ると、その本を拾い上げた。
手にしてみて改めて彩はその本の美しさに惚れ惚れとした。
本の表紙も裏表紙も薄い象牙で出来ており、その本の背は黄金(きん)いろに彩飾された真鍮の留め具で打ち留められていた。
あまりの優美さに一体なんの本なのか?と彩は思わずその場に立ったまま本を開いた。
アンティークなのか、
温もりと深みを感じるクリームいろの洋紙にブルーブラックのインクでまるで暗号のような不可思議な文字がひきつれたように走り書きされ、並んでいる。
『これは何?』
しかしよくよく見るうちに、その暗号のような文字はアルファベットで全て何故かまるで鏡に映った文字のように反転してしまっているのが解った。
『これ…エミリーの日記なんだわ…何故、どうしてこんな文字なの?』どの頁をめくってもほとんど読めるのは日付だけで後はまるきり判読不可能だ。
ただでさえひきつれたようなエミリーの文字はお世辞にも麗筆とは云えない
その上、反転してしまっている文字では読むことが出来る人間は少ないだろう、
恐らく簡単なフレーズであろう短い
センテンスが綴られているだけで終わっている頁もあるのに、これでは誰も読めないだろう、と彩は思った。
他人に読まれないようにわざとこうしたのだろうか?
と、彩は一瞬思ったがエミリーがそんな手の込んだ小細工じみたことが出来るひとではないことを彩は既に知っていた。
パラパラと頁をめくるうちところどころ、英文ではなく日本語の頁もあることに彩は気づいた。
だがそれを読むことは躊躇われた。
彩は日記をピアノのサイドテーブルへ置こうとすると、ロイがピアノの前の椅子に座りそこから睨むような瞳を向けてにゃあと鳴いた。
あまりに鋭い大声で鳴かれた為、
彩は驚いて日記を再び絨毯の上へ落下させてしまった。
すると表紙と裏表紙を繋ぐ真鍮の留め金が壊れ、頁の幾枚かがバラバラと音を立ててピアノの周りを取り囲むように落下し、まるで風に舞う落ち葉のように弧を描いて散らばった。
彩は息を飲み『…嘘でしょう??』
と云いながらも、仕方無くそれを、かがんで一枚一枚拾い集めた。
英文もあれば日本語も混じっている、それを見ないように気をつけながら拾い上げていた積もりなのに彩の眼は最後に拾い上げた頁にある自分の『彩』という名前の一文字に誘蛾灯の蛾のように吸い寄せられてしまい彼女は次の瞬間、その頁をまるで貪るように読んでいた。
エミリーはアルファベットは何故か逆さまに書いても、日本語を書くことにはなんら問題は無いようだった。
ひきつれたような何か痛々しいものを見るような筆跡は英文でも日本語でもあまり変わらなかったが、少なくとも判読不可能では無い
『◯月◯日水曜日、
今日は平日だ、なのに彩が来るような気がしてならない、
今宵は栗名月だ。栗名月の宵には昔の日本人は栗を食べたという、
彩が来るような気がしてならない私は今日生まれて初めて栗ご飯を炊いた。土鍋で炊いてはみたものの、ご飯は焦がすし栗にも火がちゃんと通っていなかった。
月を見上げながら独りで庭で栗ご飯を食べた…。
彩は純粋な日本人だからきっと和食が好きだろう、
そう思って炊いたのに今私は独りで栗ご飯を食べている。
彩…今どこでどうしているの?
もう私のことなど忘れてしまったの?
彩るという美しい名前をもつあなた、
私の大切なビューティフル・フレンド、あなたが私のベター・ハーフであってくれたらいいのに…
彩、
あなたは私の中の大切なビューティフル・ワールド、
花の蕾のように守りたいひと。
小さく可憐な…
そして果てしない可能性に満ち溢れた…貴女は凛々しくそして偉大な世界…』
世界という文字の上に涙が零(こぼ)れ落ち、世界という文字はたちまち滲んで消えて『世界』ではなくなった。
『…ああ…エミリー…エミリー…』
彩は絨毯の上に散らばった頁の渦の中央に横座りになったまま、両手で顔を覆って泣き崩れた。
『私はなんてことをしてしまったの?何故あんな酷いことを言ってしまったの?
世間体や噂や評判や、どうでもいい世俗の尺度で貴女を測ったりして…
そんなこと…どうでもいいことだったはずなのに、
下世話な好奇心?
噂話の種探し?
意地悪な気持ちから生じたあら探し?
傷ついた顔を見たかっただけ?
それで私のストレスが発散されたとでもいうの?
なんて恥知らずで穢らわしい真似を私はしてしまったの?』
顔を覆いながらも、ずっと片手で握りしめていたブルー・ベルの花が、すっかり萎れてしまっているのを見て彩は思い出した。
あの夜、キュウリの酢漬けのサンドイッチと共にバスケットに入れられていた紫を一匙、加味したような蒼い押し花、
それはこのブルーベルだったのだ。
すると自分の膝のすぐ間近にある頁に彩は視線が釘付けになった。
そこには
『◯月◯日◯曜日、
彩がまたうちへ来てくれた。
ああ、私の愛しい彩は嵐の中を飛んできた小鳥のように濡れて震えていた、私はあなたが愛しくてならない、それなのに、もう不安でパンパンにふくらんだ風船のように私の心は既にはち切れそう、
貴女に嫌われたら私はどうしたらいいの?
私は彩と出逢ってから、前よりずっと臆病になった、
愛する人が居るって嬉しいことのはずなのになんだか苦しい…彩、
…あなたはきっと変わってしまう、
他の人々がそうだったように…
ひとくちかじった林檎がたちまち、その色を変えるようにきっとあなたも変わってしまう、
そして私に背中を向けてヒールの音を立てて去ってゆくのね…
貴女が来てくれてとても嬉しかったのに彩、私にはもう貴女が私のもとから立ち去ってゆくのが見える、
だから貴女にそっと渡したわ、
バスケットの中にイングリッシュ・ブルー・ベルの花を…
彩、あなたはその意味を知らないままいつか私から離れてゆくのね、
ブルーベルの花言葉に私の心を託したわ、
でもきっとそれを知っているのは永遠に私独り…
彩には私の心は届かない』
『…ブルーベルの花言葉って何?
なんなの?エミリー、教えて』
でももう帰れないわ今更…
エミリーだってもう私を赦してはくれないわ』
ニャア!とロイが鳴いた。
見るとロイは居間の扉の前に立ち、開けろというように彩を見つめている。
厳密には扉は僅かに開いているので猫は出入り可能なはずだが、それでもロイは扉の前で彩に向かってもう一度迫力のある野太い声でニャア!と鳴いた。
来いよとロイは言っているのだと彩は感じた。
お前に勇気が無いのなら俺が導いてやるから俺の後ろからついてこいよ、人間は猫ほど勇気も無ければ賢くもないんだ、だから時には猫の云う通りにすればいい時もあるのさ、彩にはロイの言葉がそう聴こえたような気がした。
『ロイ、今しゃべった?』
『ワア!』
とロイは怒ったように吠えた。
まさに鳴くというより吠えるに近い声だった。
『解ったわ、ロイ、
私をエミリーのとこへ連れていって』
ロイが扉の隙間からするりと抜けると彩は立ち上がり、扉を開けた。
弾丸のように廊下を駆け抜けてゆくロイ、
扉はそれに連動するように次々と勝手に開いてゆく、
彩はその後を追って駆け出した。
ビューティフル・ワールドの硝子張りの巨体なサンテラスのような店先のドアを抜けて彩は走った。
走りながら彩はヒールを脱ぎ捨て、いつの間にか黒いトレンチコートを脱ぎ捨てていた。
森の中を素足で走る彩はいつの間にか森が燦然と光り輝いて木々に星が宿ったかのように煌めきの吹きだまりと化していることに気がついた。
まるで森全体がクリスマスツリーで隈無く覆い尽くされた祝福の森のように彩には見えた。
彩とロイはそのあふれ、さんざめく光輝の反映を浴びて自分達もその光で濡れたように綺羅めきながら森の中をひたすら走った。
森を抜け、
あの荒野へ出ると、ロイと彩が踏破してきた荒れ果てた通り道が次々と緑萌ゆる小径となった。
ふたりが走るに連れ、その小径の緑はまるでその新緑の触手を伸ばすように、うねりながら延び拡がり、ザワザワゾワゾワと激しい音を立てて巨大な蟒蛇のようにその緑の原は野面(のづら)一面、野涯の果てまで、灰色のゴツゴツした荒野や突き出した岩の上にまでその豊かな緑でぐんぐんと染め上げ、飲み込んでいった。
名の知れぬ花や見知った花が、
急に芽ぐみ、咲き零れ、雲が割れ、割れた雲が互い違いにまるで絡繰り時計の文字盤のようにひび割れて離れていった。
しかしその合間には鉛いろの濃い雲が低く垂れ籠め、重なり合い、雷鳴が轟いた。
彩は思わず小さく悲鳴を上げて、
佇んだが、ロイが立ち止まって遠くの原の丘に立ち、彩を見つめているのを見て彩は再びロイに追いつこうと駆け出した。
ロイはそれを見てまた駆けてゆく。
気がつけば彩は純白のドレスを纏っていた。
走りながら彩はそのことが莫迦莫迦しいほどに嬉しくなった。
なんて莫迦みたいなの、と彼女は嬉しくなった。
なんてナンセンスでなんて少女趣味?ああ恥ずかしくって莫迦らしくって、ああ、それなのに、それなのに…。
今、この幻の野原を走りながらまるで花嫁のような純白のドレスを着ている自分が私は誇らしい、
どんな目で見られたって構わない、何を云われようが私は自由だ、
どうでもよいことに色眼鏡を使い回し、好奇心と噂やあら探しをする以上には闊達に動くことのない世俗の人々よ、あなた達の幸せの種をお願いだから私達にまで植えつけようとなんてしないで、
私は異うの、エミリーもよ、
私達はあなた達の種を植えつけられたら死んでしまうわ、
死んだように生きることになってしまうわ、
だからあなた達の定規を私達に当てて測らないでちょうだい、
エミリーはあなた達に測ることなど到底無理だわ、
だってたとえ肉体は繋がれていてもエミリーの魂はあなた達よりずっと自由よ、
そしてあなた達がつまらない憶測で噂話に花を咲かせている間彼女は天を飛翔し宇宙を天駈ける、
彼女のイリュージョンという目には見えない翼で…
彩がそう心の中で叫びながら駆けていると最初にふたりが眠っていたあの野原の中の白いベッドが見えてきた。
だが空っぽだ。
ふたりは丘を駆け降り、冬枯れした疎らに立つ木々の合間に倒れているエミリーの姿を見つけた。
『エミリー!』
駆け寄って彩はエミリーを抱き起こした。
『エミリー?お願い目を覚まして、エミリー!』
エミリーの顔は触れるとまるでその表面は薄氷(うすらい)が張ったように冷たい、閉じた瞼は色蒼褪め、揃った長い睫毛にまで霜が降りている。
『エミリー!起きてお願いよ、
彩よ、彩が帰ってきたわ、
だからお願い、
目覚めて、
もう一度私に笑顔を見せて、
私を赦して』
彩はエミリーを抱き起こしたまま、その胸に泣き伏した。
もう私を赦してはくれないの?
それとも私の言葉が貴女を傷つけ過ぎて貴女はもう目覚めたくないの?眠り姫のようにこのまま眠ったまま、もう二度とその声を聴くことは出来ないの?
彩って呼んではくれないの?
彩はエミリーの胸に泣きすがりながら、いつの間にかそう叫んでいた。
最初は心の中で叫んでいた積もりがいつの間にかそれは声となり、
ほとばしっていた。
声は野原を風に乗って渡り、彩の悲しみは鹿達や兎や栗鼠のいる丘にまで谺した。
雷鳴が鳴り、天が稲妻に引き裂かれた。
鹿や兎達は全てどこかへ逃げ馳せてやがて激しいスコールが降り始めた。
ロイがエミリーと彩の膝の間に乗るように座ると彩はロイを、更にはエミリーを、篠突(しのつ)く雨から護るように、背(そびら)を天に向けて、当たると痛みを感じるような強い雨脚からふたりを護った。
やがて小粒の雹(ひょう)と化した雨は、
彩の背中や華奢な肩を小石が降りつけるように音を立てて打った。
彩はロイをしっかり自分とエミリーとの間に匿(かくま)い、精一杯、四肢を伸ばしてエミリーの身体をも守ろうとした。
暫くの間、雹は降り続き、彩は後頭部にまで雹が石礫(いしつぶて)のように当たっては跳ね返り、当たっては跳ね返りし、やがて段々、気が遠くなってゆくのを感じた。
目の前が滲(にじ)み、霞んで少しずつ視界が狭くなってゆくのを彩は感じた。
しかしその瞬間、彩は飛び上がるほどの歓喜の感触に弾かれたようにして目覚めた。
エミリーの指が動き、エミリーを抱き抱えている彩に幽かに触れたのである。
どこに触れられたのかも解らない、もう意識がどこにあるのかも解らない、それでも貴女を守りたい、
貴女と貴女の愛するロイを守りたい、彩はエミリーを更に強く抱き寄せた。
そして出来うる限りを尽くして天に背(そびら)を向けてその背骨や頭を身代わりとなって彩は打たれ続けた。
『…彩…?私の彩、ああ…彩と一緒に今、私はいるのね?』
『そうよ、エミリー私、
貴女と居るわ、
もう迷わない、
もう私、貴女から離れないわ、
だってエミリー、
私も貴女を愛している!』
その瞬間、雷鳴は轟き渡り丘に落雷の赤銅いろの光りが走った。
ふたりはロイを挟むように共に包み込んだまま、その轟音に耐えた。
須臾(しゅゆ)、ふたりの間に静寂(しじま)が流れた。
急に耳が聴こえなくなったかのように音もせず色も無い、何も無い世界を女達は漂った。
ニャアというロイの声で彩は何故か深い水の底で微睡(まどろ)んでいたのを呼び覚まされたように、人魚の如く尾ひれと鱗に覆われた下半身を波打たせながら深い睡りの水底(みなぞこ)から浮上した。
その人魚は真哉と眠ったあの夜に見た夢に出てきた仮面をつけた酷く艶冶なあの人魚だった。
今は何故だか彩自身があの人魚になっているのだった。
彩は水面に浮かび上がるその瞬間、水中で仮面を剥ぎ取ると、その仮面を水底(みなぞこ)へ手離した。
仮面は見る見る蒼い水中で遠ざかり、やがて蒼過ぎるその色の秘奥へとゆっくりと落ちてゆきながら、
小さく遠くなり、やがて蒼い水の静寂(しじま)の狭霧のような粒子に掻き消されて見えなくなった。
その途端、彼女は水中から跳ね上がるようにして顔を出し、生まれて初めてのような駿烈な息をした。
それと同時に彩は懐かしい声を聴いた。
『open your eyes』
(To be continued…)
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