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小説『エミリーキャット』第73章・シレーヌ達
『奇妙なもの?』
刑事はまるで何かに取り憑かれたかのような顔つきになって頷いた。
『彼女はそれをこう呼んだんだ、
”これはあと何年も何年も遠い先の未来、ここに立ち、私と同じように孤独で深く傷ついた人がここで流した泪の”結晶”なのよ。”って、
”時を超えて、今その人と同じ場所に立つ私にその人が未来の自分の存在をここに居る私に知らせる為にたった今、これを私達に見せてくれているんだわ”って』
『それどういうことですか?一体』
『解らない、だが彼女は言ったんだ、
”私の目の前でたった今遠い未来からまだ見ぬ親友が、
その悲しみの片鱗を今、ここにまるでエアメイルのようにして送ってきてくれたのだと…。』
『それは何だったんですか?刑事さんも見たんですか?』
慎哉は刑事と向かい合って立ったまま身を乗り出すようにして問うた。
刑事は悲しげな微笑をどこか咳にむせる時のように苦しげに浮かべるとこう言った。
『ああ…でも恐らくはなんてことはない、多分あれは女性のセーターとかによくついているラインストーンか模造の真珠かなんかだったんじゃないかと思うんだがな』
『模造の真珠?』
『ああ…泪のような…雫型の…
白銀(しらがね)というか、
なんというのか、キラッと光るような”それ”は保護室の狭い室(へや)の一隅にあるむき出しの便器の傍の…
長年の蹠(あしうら)の皮脂や、失禁や酔漢の嘔吐で身の毛もよだつほど穢(きたな)くなり果て、黒ずんで、ささくれ立った不潔な畳の床の上に、
”それ”はひっそりと落ちていたんだ、
彼女は”それ”を見てこう言ったんだよ、
私と同じ悲しみと痛みを持つ人が、遠い未来私と同じここに立ち、この泪を流すのだと…。
その未来に流される泪を私達はたった今ここで時空を超えて見ているのだと…。
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つまり我々は、ほんの一瞬タイムトリップしてしまったのだと彼女は言いたかったらしい、
そんな馬鹿馬鹿しいことが、と思ったが彼女は真剣な眼をしてその足元に落ちた雫型の真珠のような”ナニか”を愛おしげにただ見つめていた。
俺は彼女が不安と恐怖のあまり一時的に気がふれてしまったのかと、
とても心配になったんだが…』
と言いかけて、刑事は急に深刻な横顔を見せると呟くようにこう言った。
『でも次の瞬間、”あれ”を見た時には、何故だかもう”それ”は無かったんだ、
まるで違う次元へ消えていったかのように、
まだ下っ端だった俺がそいつを掃除して片付けておかないと、と彼女が保護室から出た直後、中へ入った時には既に”あれ”は露散霧消していたんだ。』
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慎哉の脳裡にふと、銀座のもと職場の宝飾店へ彩を連れていった時の記憶が、ゆらゆらと白い追憶の炎を伴ってまるで蜃気楼のように甦った。
彩はその蜃気楼の中で慎哉のもと上司である初老の女性に何故かこう言っていたがその会話の前後の流れを慎哉は覚えていなかった。
『真珠は人魚の泪って言われているわ』
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すると慎哉のもと上司は柔らかい口調でこう言った。
『神様の泪とも言われているのよ』
急にそのことを思い出した慎哉は思った。
何故、彩はあの時、真珠を見て人魚の泪などと言ったのだろう?綺麗な真珠ですねとか他にも普通のありふれた言葉はたくさんあっただろうに何故『泪』なのか?
俺との婚約指輪を選びに来ておいて何故『人魚の泪』だなんて言葉が出たのだろう?
道ならぬ恋でもしていたのか?
それとも彼女自身がこの世界で人魚に自らを喩(たとえ)るほど孤独だとでも無意識に、
かこちていたとでもいうのだろうか?
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俺はそんな彩の隣りで何も気づかず、ただ綺麗な人だと口々に自分の婚約者が褒めそやされるのを嬉々としているばかりだった。
急にいろんな色の憶測が現実めいた輪郭を伴って自分の中で次々と蜃気楼の続きのように生々しく立ち上がり出すことに耐え切れない思いを抱えながらも、慎哉は自分がなんと婚約者の気持ちを蔑ろにしてきたのかとふいに居たたまれない思いとなった。
河面を見つめていた刑事は慎哉を振り返り、
『お前、彼女を大事にしろよ?さっきも言ったけど女の人はな?
話をよく聴いてあげたり、
共感したりしてナンボな生き物なんだよ、
それがすっか抜け落ちてて、ひたすらゴーイング・マイウェイみたいな大昔のオトコ然としたことばかり延々続けていたら、最初のうちはそれに歩幅を合わせてくれていた彼女がいつか自分の歩幅で歩き出し、どこかへ消えてしまうなんてことにもなり兼ねないんだぞ、
あるいは自分と同じ歩幅で、同じ世界を歩ける誰かを見つけてしまって…
その誰かさんが君の大事な彼女をどこか遠くへそのまんま連れて行ってしまうということだってある。』
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『…同じ歩幅で同じ世界を歩ける誰か?…』
刑事はその細い目に河面に金銀、はらみつつ揺れる眩しい小波を映したまま頷いた。
そして次の瞬間、彼は別人のような柔らかい笑顔を浮かべるとまるで歳の離れた弟に言い聞かせるようにして語った。
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『俺はさ…それで前の結婚を失敗したんだよ、
だからあんたにも言いたいんだ、
言わなくたって解ってくれるだろう、俺の気持ちを俺の女なんだから察してくれるだろうなんてのは男の幻想だしそんなの甘えだよ、
本当に伝えたいことがあるなら、たとえカッコ悪くても照れ臭くてもちゃんと面と向かって言葉にして言わないと女の人には通じないよ、』
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『……』
『婚約者さん何て言ったっけ?彩さん?
彼女はきっとあんたのほうから打ち明けて訴えて吐露してくれるのをむしろ待ってんじゃないかな?』
『吐露!?』
『冷めた紅茶みたいなさ、
生温(ぬる)い男の子をだな?
大人の女の子はじれったく感じているんだよ、退屈でぼーっとしてて温厚だが自分への情熱の欠片(かけら)も無いなんて、内心では狂おしく時に身悶えするようなさみしさを感じたりもしているんだよ、
そんなこと、決して口には出さないがね』
『彩はそんな情熱家の女なんかじゃない、
ただ乳癌の予後が思わしくなくて少し病んでいるだけです。でもそれさえ快くなればもともと賢い女性(ひと)だし、仕事だって俺より出来るしっかり者です。
そういう意味では並み以上に社会に適応して生きている人なんです。
充分に適応してその結果として充分に平均的な恋愛をして幸せな結婚しようとしている、そんな女性に刑事さんが言う狂おしさなんか有るわけもないし、彼女はそんな情熱なんか俺にも誰にも求めてなんかいませんよ
彩はもっと普通の平常心を持つ…
ごくありふれた…
刑事さんの言葉を借りるなら…穏やかで…”生温(ぬる)い”女です。』
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それは慎哉の本音であると同時に、最近はその根底が揺らぎ始めている慎哉の不安感の原(もと)でもあった。
そんな慎哉の内心を見透かすかのように、刑事はその細い目を横から慎哉にすべらせると、まるで投石のような勢いを持つ言葉を投げた。
『あんたが知らないだけかもしれないだろう?
彼女、何も言わないだけなんじゃないのか?
言ってくれる女性(ひと)はまだ解りやすいが、何も言わない人は…』
そう言って刑事は通り過ぎた遠いあの橋を眩しげに見つめ、やがて慎哉をふり返る
とこう言った。
『全部がそうだと言うわけじゃないんだよ、
だがそういう”平常心”の女に見える人ほど内心飢え渇いていて…深い傷のような孤独を秘め続けることに心中ギリギリの限界を感じてしまっているような場合もあるってことを、俺は言いたいだけなんだ、』
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『飢え渇いてって…限界?
飢えるって…
そんな…一体何に??』
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慎哉はその理不尽な投石に猛烈な怒りを感じながらも、同時にそう問わずにはいられない不思議な欲求を感じた。
その抑え切れない欲求に強い不条理さを感じつつも、慎哉は自分の中に自分の知らないもう一人の自分がいると感じた。そしてそのことに無視出来ない拘泥(こうでい)を感じて彼は途方も無く惑乱した。
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今まで関心すら持ったこともない、つまらない奴だと鼻でせせら笑っていたそのもうひとりの他人のような自分が今、慎哉にはどうしても必要な片割れのような気がしてならなかった。
そいつの顔が見てみたい、
と慎哉は心の奥底で真剣に願った。
メンデルスゾーンコップは急に慎哉の両手首を掴むと、まるでダンスでも始めるかのようにその手をしっかりと握って向かい合い、その真ん中の円い空間に何か大切な壊れやすいものを抱合しているかのように優しい笑顔を慎哉に見せた。
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だが同時にそれは慎哉にとっては、何やら子供に遊戯を教え諭そうとする小学校教師か何かのような、ともすれば滑稽な挙措(きょそ)で慎哉は内心嗤い出したいのを必死で堪えていた。
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しかしそのことに全く気づかぬ刑事は、慎哉の両手首を強く握ったまま上下にぶんぶん振るい立てつつ切々と言い含めるのをやめようとはしない。
メンデルスゾーンは更に言いつのった。
『彼女達の冀求(ききゅう)するもの、
それはまるでとうに失われてしまってもう無いはずの…
彼女自身の処女膜の影に隠れてしまって見えないような…
そんな感じなんだよ、
だから男には一体なんのことやら不可解なばかりだ、
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でもそんな一見、生温(ぬる)い女達が大抵の場合、ひた隠しにしている”飢え''はさ、
共感とか理解とか様々あって複合的過ぎてひとくちには言えないが…
敢えて言うなら…そのう…
…ロマンスだよ』
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慎哉はそれを聴いて思わず大きく吹き出した。
彼は刑事にしっかりと両手を掴まれたまま笑って笑って笑い転げ、刑事がそれを白々と見つめていることに気づいても尚、その笑いの発作を止めることが出来ず、その笑いの奔流をせき止めるために、
彼は両手が自由にならないまま、自分の口を無理矢理スーツの肩に押しつけるようにして耐え忍んだ。
そんな若者の姿をどこか痛ましく感じて見ていたメンデルスゾーンコップは、慎哉の手をふいに振りほどくようにぞんざいに離した。
そして空を見上げて困ったように鳥の巣のようなその豊かな髪を指先でワサワサと掻き乱すなり、口の中でモゾモゾと私語(ささめごと)めいてこう言った。
『まだロマンスだったらいいほうだ…。
本当の”飢え''に喘ぐ女性はそんなロマンスくらいじゃ薬にもならんのだ、』
慎哉は涙ぐましい努力と共にようやく哄笑(こうしょう)の発作から抜け出すと、まだ笑いの滲む声を震わせながらこう言った。
『じゃあどんなことなら薬になると謂うんです?』
『それは……』
と刑事は慎哉に何故か冷ややかな眼を向けると、まるで憐れむようにこう言った。
さながら手遅れのステージにまで上がってしまった癌患者に、その最終病態を告知する医師のような口調にも似て、その声は鎮かであると同時にどうか造りものじみた同情が含まれていて、まるでそれはビジネストークのようだった。
『それは…現代風に言うならばバッドロマンスとでもいうのかな、もっとはっきり言うならば…狂恋だよ、』
『狂恋?』
『人生を引き換えにしても、悪魔に魂を売っても構わないと思わせる…
命懸けの恋だ、
文学の世界でもあるだろう?嵐が丘のヒースクリフとキャサリン、
ロミオとジュリエット、
ちょっと形は変わるが蝶々夫人に八百屋お七もそんな女達だ』
『そんな…!
馬鹿も休み休みに言って下さい!彩はじゃあ、一体どこの誰とそんな身も心も焦がすような激しい恋をしてるって云うんですか!?』
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と同時に慎哉の携帯がスーツのポケットで鳴った。
それは山下尚三からの電話であった。
酷く憔悴したような声で山下は慎哉に言った。
『昨夜吉田くんのマンションに電話をかけたんだが、彼女全く出なかった、彩ちゃん、一晩中もしかしたら家に全然帰ってないんじゃないのか?』
その前もかけたのに電話に出ず、ラインも未読なままだ、とても心配だと言う山下の声は痛烈なまでの不安感に満ち満ちていた。
その声は慎哉の知らない彩に関する事情によって、山下の中に生じた不安であることは火を見るより明らかだと慎哉は思った。
その狼狽を隠し切れない、
いつも陽気な山下らしからぬ弱々しく振戦する声が、スマートフォン越しにも鮮明に慎哉の耳朶(じだ)にまで伝わり、彼の背中に思わず熱い冷や汗が流れた。
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『松雪くん今どこにいるんだい?もしかして外?』
河の流れる長閑(のどか)な音や、野鳥の囀ずりを聴いたのか山下はそう言ったが、そう聴く山下の傍で出し抜けに救急車が通り過ぎる大きな音が鳴り響き、その音は上下線の急峻なカーヴを描くようにジグザグに昂まったり鎮まったりしながら、その不安なアウトラインを慎哉の中で突き上げるように色鮮やかに描き出した。
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あまりにも鮮度の強い不安感に慎哉は眩暈と吐き気を感じて思わず右足から左足へと重心をずらせると、今にも倒れそうな想いを辛うじて踏みとどまるとこう言った。
『そうです外です、山下さんも外ですか?』
『うん、今から吉田くんと最後に別れた場所へもう一度行ってみようと思うんだが…』
ここで山下は沈黙したが、その背後で遠ざかる救急車のサイレンがまだ執拗な不安の旋律となって慎哉の耳に膠着するかのように谺(こだま)した。
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その谺がまだ耳の奥に眩しい光を見た直後、目を閉じた跡の朱色の瞼の裏にしぶとく居座る残像のように響き続けるのを感じたまま、彼は山下の言葉をどこか茫然自失となりつつも、壁打ちされたボールが自分に向かって一直線に飛んできたかのように目を見開いてそれを必死で受け止めた。
『松雪くん、僕と一緒に来ないか?』
慎哉はその山下の言葉が発せられると同時に深く頷いていた。
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to be continued…